レスリングを撮るために世界中を駆け回り、RIZINではオフィシャルカメラマンとしてMMAファイターも撮り続ける保高幸子さん。当時マイナースポーツだったレスリングに魅入られた理由から、格闘技を撮る難しさまでを語っていただきました(聞き手/松下ミワ)
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――格闘技界ではRIZINのオフィシャルカメラマンとして知られる保高さんですが、レスリング方面にはもっと深く関わっているようですね。
――世界レスリング連盟! 保高さんのツイッターを見ると世界中を飛び回っていますが、そういう理由からなんですね。
保高 そう。「今度、この国で大会があるから来てね」ということで試合写真を撮りに行ってます。それと、日本レスリング協会の公式FacebookとInstagramの更新も請け負っていますね。日本レスリング協会ではもうひとりオフィシャルカメラマンがいて、基本的に大会写真はその人が撮っていることが多いんだけど、私もFacebook用として別の場所から撮っていたり。あと、6~7年前からやっているのは選手プロフィール写真の撮影。大会への出場申請するための選手写真を協会に納品しています。そこまでたいしたことやってないんだけど。
保高 そうです!(笑)。
――もはやレスリング界の広報みたいな感じですね!
保高 まさに昔はレスリング協会の広報委員をやっていたこともあったんですよ。だけど、公式SNSはお金をいただいてやってて、広報委員は無償だったから「広報委員に金銭のやりとりをしている人が入らないほうがいいのでは?」ということで委員会からは外れました。でも、SNSをやっている以上、広報委員長とは密に情報交換しているし、“委員”であろうがなかろうが、あんまり関係ないというか。だから、あらためて聞かれると「私はなんなんだろう……」と。
――そう思えるぐらい幅広く動いている。
保高 そうですね。結局、協会の人や広報委員長とは20年以上の付き合いだから、“外の人”だという感覚はないし。つまり、私はレスリングが好きで、レスリングのために動いていて、究極はレスリングの選手みんなに幸せになってほしいの!
保高 フフフフ。そんなたいそうなことでもないんですけど。
――となると、今回の東京オリンピックのレスリングにも何かしら関わるということですよね?
保高 じつは私、オリンピックの現場に立ち会うのは今回で5回目。で、今年はカメラマンとしてじゃなくて、組織委員会の仕事をいただいているんですよ。レスリングとテコンドーが行われる会場のフォトマネジャーというポジションなんだけど。
保高 組織委員会にプレスオペレーション部という部門があって、放映権持っているホストブロードキャスターと、国際連盟と、カメラマンの要望に対応するのがフォトマネジャー、記者に対応するのがメディアマネジャー。その役割はどの大会にも各フロアにひとりずついるんですけど。今回のオリンピックは日本開催だから、せっかくなら日本人にそのマネジャー職をやってほしいということで、私にお願いができないかと。
――へえ~、それは名誉な仕事ですね。
保高 まだカメラマンとしてオリンピックに参加したいという気持ちもあって迷ってたんだけど、私の中で20年ずっと同じことしかやっていないという思いもあったんで、今回は違うことに挑戦してみようかなって。
――つまり、東京オリンピックは写真は撮らない。
保高 そう、苦渋の決断(苦笑)。でも、東京でやるオリンピックは日本のカメラマンもいろんな人が同じ場所から撮るわけで、べつに私が撮らなきゃいけないもんじゃないなって。
――なるほど。今日は、そんな保高さんがなぜそこまでレスリングや格闘技界に深く関わるようになったのかをうかがっていきたいんですが、キャリアのスタートとしてはどういうものだったんですか?
保高 そもそも私は中学時代に陸上をやっていて、高校でも陸上部に入ったんだけど、当時の先生とウマが合わなくて。で、その高校が何かの部活に絶対に入らないといけない学校だったから、今度は写真部に入ったんです。
――写真との接点はそこなんですね。
保高 写真部の先生はいい人だったし、写真にも興味があったし。当時、写真部には20人ぐらい部員がいたんだけど、私以外みんな幽霊部員で。だから、体育祭とかは競技には参加せずに、私はもうずっと写真を撮っていて。そこからだよね、「スポーツを撮るの、面白いなあ」と思ったのは。で、高2のときにちょうどアトランタオリンピックがあったんだけど、テレビでレスリングを観ていたら、なぜかわからないけど「レスリング、すっごいカッコいい!」と(笑)。そこから、のめり込んでしまいました。
――かなりマニアックな高校生ですね(笑)。
保高 そして、いざ進路を決めるときに母親に「どうしても大学に行ってほしい」と言われたので、4年間勉強するんだったら写真以外やりたいくないということで、日大の芸術学部を受けて上京したわけです。だから、高3のときは「東京に行ったらレスリングを撮ろう」と決めてた。まあ、ほかにもいろいろ好きな競技はあったんだけど。体操とか、柔道とか、ウエイトリフティングとか……。
――全部、筋肉系じゃないですか!
保高 そうなんですよ(笑)。それってずっと昔からで。小学校のときに図工で作った版画作品がハードルを跳んでいる人だったんだけど、すんごい太腿の筋肉をデフォルメしているような作品だったの。先生に「よく筋肉見てるねー」と言われた記憶がある。
――筋金入りなんですね(笑)。
保高 で、大学も3年になると、何かテーマを決めて好きなものを撮りなさいということだったから、そこで「レスリングだな」と思って、すぐにレスリング協会に電話をしたんです。
――えっ、いきなり直電ですか!?
保高 だって、その当時はレスリング協会のホームページもないし、電話するしかなかったから。「日芸の学生なんですけど、レスリングの写真を撮りたいんです。どこに行ったら撮れますか?」という感じだよね。その時代はまだ緩かったから、電話に出てくれた事務局の人が「日大レスリング部の合宿所が江古田にあるよ」と教えてくれて。たまたま日芸は江古田に学校があったから、日大レスリング部にもすぐに電話してオッケーをもらって。そこから通い詰めました。
――そこからレスリングの練習を撮りはじめたんですね。
保高 最初は練習風景ですね。その中で大会があることも教えてもらったりして、最初は日大レスリングの選手が出る大会を中心に撮っていて。そうすると、どんどん欲が出てきて「全日本選手権も撮りたいな」と。そのときフリーでレスリングを撮りにきているカメラマンはいなかったんですよ。それこそ共同通信、東スポ、日本レスリング協会のオフィシャルだけみたいな。
――まだまだニュース性が薄かったんですね。
保高 マイナーだったし、まだ女子はオリンピックスポーツじゃなかったし。私が撮り始めた1999年は山本美憂さんがアーセンを生んだ3年後だったので、ちょうど復帰していました。
保高さんが撮影したレスリング時代の山本美憂
保高 でも、2000年から3年間またお休みしてたので、あんまり撮っていないんです。でも(山本)聖子はいた。聖子は私の2コ下で、しかも日大生だったから。宮田和幸さんも、日大は卒業してたけど練習は来てた。
――じゃあ、聖子さんは当時から撮ってたんですね。
吉田沙保里21歳、山本聖子23歳の対決
保高 うん。その頃って私みたいにレスリングが好きで熱心に撮りにきてくれるカメラマンなんていなかったから、選手も関係者も凄く親切だったんです。ただ、私は「カッコいい!」と思って撮っていただけだから、じつはルールとかは全然知らなくて。グレコローマンとフリーの違いもよくわからなかったんだけど、みんな親切でやさしいから教えてくれるんですよね。
――選手や関係者はもっとレスリングという競技を知ってほしかったんでしょうね。
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コメント
コメントを書くrizinの会場でも、映像でも、保高さん、一番動いてるのではと、思ってました。
いつかrizin写真展みたいです。
こういう人達に焦点が当たるのいいですね。
裏方話は良い!