しかしながら、ゆとり世代は、そういう教育を受けてしまったためほとんど仕方なくそうなっているわけであって、ある意味被害者ともいえる。だから、この問題で真に責めを負うべきなのは、そういう世代を生み出した彼らの親となるであろう。
では、「ゆとり世代」の親が一体どういう世代だったのかというと、これがぴたりと「しらけ世代」に当てはまるのである。
「しらけ世代」とは、50年代の後半から70年くらいまでに生まれた人々のことを指す(そのもうちょっと後は「新人類」などと言われたりした)。現在は、45歳から60歳くらいまでの層である。
なぜ彼らが「しらけ世代」と言われているかといえば、政治闘争に無関心――つまり「しらけ」ていたからだ。
これは、少し上の世代が政治闘争に明け暮れていたのとは対照的だった。特に60年代は、政治闘争をくり広げることは若者にとって一種の習わしみたいなところもあって、そうでないと「ノンポリ」と言われ、バカにされたり時には強く非難されたりもした。
しかし「しらけ世代」は、そういう一世代の上の人々とは全く対照的に、ほとんど政治闘争を行わなかった。おかげで、日米安保条約は、締結した60年も更新した70年も大荒れに荒れたのだが、その次の更新となった80年以降は無風となった。その年に大学生であった60年前後生まれの若者が、まさにしらけ世代のど真ん中で、彼らが政治闘争に全く興味を示さなかったからだ。
ではなぜ「しらけ世代」は、上の世代とは対照的に政治闘争に無関心になったのか?
ここでは、しらけ世代のど真ん中である1960年生まれをモデルに、彼らの生きてきた道筋に何があったのか――ということを見ていきたい。
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僕の親には、自分の親にされて嫌だったことは自分の子供にはしない、という教育方針のようなものがあったと感じます。
でもこれは、けっこうどの世代でもあることだと思うんですよね。自分の親に対する怨みというか。
なので、
親が気に食わない→子供には自分がされたことと反対のことをする
親が子を育てる基本構造は、こういう風になっているんじゃないかなと思いました。
私の中学時代に『今日から俺は!!』という漫画が流行っていて、兄の影響でハマりました。
当時、私はこの漫画から「熱くなるのはカッコ悪い」という事を強く感じていたように思います、そして著者は1963年生まれです。今見れば「熱くなる事はカッコ良い」とも言っていると分かりますが、全体的に感じる印象は今でも変わりません。
前世代の考え方が継承される経路も様々ですね。親になる前に作品を出してヒットすれば、ゆとり世代でない人間にも考え方を継承出来ます。
メディア全般に時代が反映されている。世代論というモノもなかなか面白いですね。
「万人の万人に対する闘争状態」を、「しらけ世代」は無意識にわかっていて、「ゆとり世代」は無意識にわかっていないということでしょうか。
>>1
時代はめぐりますね。
その中で運不運というものが現れるように思います。
しらけ世代は、彼ら自身は幸運なのですよね。
まあしかし、運不運の見極めも難しくて、幸運なことが、逆に不運だったりもするので、難しいです。
>>2
当時は本当に熱くなることがカッコ悪かったですね。
ぼくの学校では音楽の授業で合唱の時に「歌わない」ということがある種の習わしになっていました。
その時間に歌おうものなら「なに熱くなってんの?」と白眼視されました。
>>5
その通りですね。仰るように「しらけ世代―ゆとり世代」の親子に共通するのは、どちらも「無意識」なところだと思います。だから、端から見れば「似たような親子ね」という評価も当てはまると思います。