ハックルベリーに会いに行く
石原莞爾と東條英機:その26(2,214字)
新聞全体の発行部数は、ちょうど大正に入ったくらいで最初のピークを迎える。そこまでは右肩上がりに成長してきたが、ここで伸びが鈍化し、やがて過当競争の時代に入る。そこから、生き残りをかけた熾烈な部数獲得競争が始まるのだ。
そうして各新聞社は、部数獲得のためになりふり構わなくなる。まず何をしたかというと、朝日新聞が高校野球(当時は中学野球)を始める。1915年(大正4年)、掲載する記事の材料として、野球の全国トーナメントを主催するようになるのだ。
これに対して、読売新聞は少し遅れてプロ野球を始める。1931年に大リーグを招聘し、これを契機に全国から優秀な選手たちを集め、やがてプロ野球チームとして興行を打ち始める。
また、朝日新聞は近代小説の揺籠ともなった。特に夏目漱石をスーパースターに押し上げ、日本文学史に燦然と輝くいくつもの名作を掲載していく。
さらに、漫画も強力にバックアップする。時事新報(後
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