ハックルベリーに会いに行く
石原莞爾と東條英機:その27(1,874字)
大正以降(1910年代以降)、新聞による世論形成はいよいよ本格化していった。それに伴い、新聞業界に参入する事業者が増えたため、各紙の生き残り競争は熾烈を極めた。
そんな中、朝日新聞は1915年(大正4年)、販促の一環で高校野球を始める。するとこれが大当たりし、おかげで朝日新聞は売上げを伸ばし、日本メジャー新聞の一角を占めるようになった。それと同時に高校野球も、日本の伝統行事として定着した。
ところが、そんな高校野球にはこれまで3度、開催を中止したことがある。一つは記憶にも新しいコロナ、一つは80年前の戦中、そしてもう一つが1918年の米騒動である。これによって、行われるはずだった第4回大会が中止となった。
そんなふうに、米騒動は戦争やコロナに匹敵するほどの大事件だったのだが、この発生と拡大に大きく関わったのが新聞である。
まず、新聞を読んだ人々が政府のお米に対する政策に不満を募らせ、盛んに
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