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野球道とは負けることと見つけたり:その13(1,719字)
文也が監督になったのは1951年、29歳の年だった。全国制覇をするのが1982年だから、そこから実に31年が経過したことになる。このとき、文也は60歳になっていた。ちょうど教師を定年する年だった。
その文也の30余年の苦闘とはどのようなものだったか?
まずは「甲子園の呪い」ともいえる日々だった。監督に就任したときから、文也は甲子園にこだわり続けた。甲子園に連れていくことこそ高校野球指導者としての使命という信念を持ち続けた。
さらにいうと、「勝つ」ということにこだわった。文也の辞書に、実は「負け」の文字はなかった。彼はとことんまで勝ちにこだわったのだ。
なぜなのか?
一番の理由は、文也自身が、自分のことを好きではなかったことだ。彼は今の言葉でいえば自己肯定感が極端に低かった。自分は負け犬のどうしようもない人間だと思っていた。それを払拭するために、半分は酒に頼っていたところもあった。酒に溺れて
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