1974年春、池田高校は人々にとってどのような存在となったのか?

まだ誰も池田高校の名を知らなかった。もちろん蔦文也の名も知らない。徳島県は強豪県の一つではあったが、それにしても無名の田舎の公立校が勝ち進めるほど甲子園は甘い場所ではない。ましてや部員が11人しかいないのであれば、初戦敗退かせいぜい一勝が順当なところだろう。

ところが池田高校は初戦の函館有斗を4-2、二回戦の防府商も3-1と立て続けに破った。しかも勢いに乗った準々決勝は倉敷工に延長12回の末に競り勝つ。点差の上でこそ辛勝だったが、勢いでは完全に勝っていた。文也の采配ミスがなければもっと楽に勝てた試合だった。

おそらく、全国の高校野球ファン、あるいは一般の人々にも池田の「さわやかさ」が強烈に植えつけられたのはこの試合においてだろう。なにしろ、さんざん拙攻を積み重ねた。試合「巧者」ぶりではなく「劣者」ぶりをいかんなく発揮し