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[Q&A]同窓会に参加しないのは変ですか?(1,533字)
[質問]毎年この時期になると、中学の同級生から忘年会の案内がLINEグループで来ます。当時の教師も毎年数名参加している様ですが、私は参加しないどころか毎年毎年気持ち悪いとすら思ってしまいます。中学時代から同級生と教師は全体的に好きではなく、社会に出るにつれそれが強くなっています。この時代に大昔の仲間と毎年忘年会をして何が楽しいのかなと思います。「自分は気が狂っている」のでしょうか?[回答]気が狂っているとは思いません。ぼくも40代まで同窓会には一回も出ませんでした。やっぱり中学・高校(一貫校でした)の同級生と教師があまり好きではなかったからです。しかし50歳のときの同窓会に、そろそろ出てもいいかなと思って出ました。そうしたところ、思わぬ発見がありました。それはぼくが、自分が思ったほどみんなを嫌っていない、ということでした。またみんなも、思ったほどぼくのことをどうとも思っていませんで -
本質的に生きる方法:その11(2,110字)
フランク・ロイド・ライトの建築は「アール・デコ」のスタイルがベースにある。「アール・ヌーヴォー」を用いたことはない。それは、近代のテクノロジーに対して、深いところで共感あるいは賛同の気持ちを持っていたからだ。ただし、それでいながらアール・デコをそのまま踏襲するのではなく、大きな「アンチテーゼ」を提唱している。それは、アール・デコの建築に特徴的な鉄骨の作り出す「直線」を、アール・デコ自体はエンパイアステートビルディングに代表されるように垂直方向つまり縦に伸びていったのに対し、ライトの建築においては水平方向つまり横に伸ばしていったことだ。なぜそうしたアンチテーゼを提唱したかといえば、それはアール・デコにおける縦への直線が、デザインにおける大きな「弱点」ともなっていたからだ。なぜ弱点になっていたかというと、直線が縦に伸びることで、人々に大きな「威圧感」を与えてしまっていたからだ。それによ -
石原莞爾と東條英機:その65(1,934字)
1936年12月、石原莞爾のはしごが武藤章によって密かに下ろされ始める。そうしてこれ以降の数年間が、石原にとって一つの「受難の時代」となっていく。その石原の受難を見る前に、まず当時の内閣の動きから確認したい。石原と武藤の一件から3ヶ月後の1937年2月、時の広田内閣が総辞職した。広田内閣は、二・二六事件の責任を取って解散した岡田内閣に代わり、11ヶ月前の1936年3月に組閣された内閣だった。首相は外務省出身の元外務大臣、広田弘毅である。岡田内閣解散後、最後の「元老」(明治以来の「元老制度」はまだ残っていたが、在任者が亡くなると新任は決めず、元老が全て亡くなったら制度そのものを廃止するというのが既定路線だった。ちなみに山懸有朋も元老の一人だった)として、天皇のブレーンを務めていた西園寺公望に、新しい首相の任命が託される。そこで西園寺は、貴族院議長であった近衛文麿を推挙する。ところ
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