この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
>>7
ぼくはものを教える時、生徒にとっての絶対強者になろうとします。
そうすると、自分がそれには全然足りないと分かります。
そこでどうするか?
絶対強者としての教師に相応しくなろうと、自分自身がさらなる成長を志すようになるのです。
教えるということは、その循環の中に真実があると思います。
>>11
こんばんは。
岩崎さんが、成長を志す時に信じるものとはなんでしょうか?
いや、、違うな。。隣の事でなく自分のこととして考えてみます。
正直、どうやって考えたらいいのかわからないけど、、僕も30越えてるんで自分で考えてみます。勘は反応してるけど、ぜんぜんわからないんで、。電話したり、図書館行ったり動いてみよー!そんなときはそれしかない。
「信じる心」という言葉でドラクエ4のある場面の「誰も信じられなくなった人物」を思い出しました。
その場面では「信じること=疑わないこと」「信じないこと=疑うこと」「信じさせること=疑わせないこと」等の文脈がなかったので疑問が残っていたのですが、
「誰も信じられなくなった人物」に「信じる心を信じさせること」の方法の一つとして、主人公が名の無い宝石に「信じる心」という名前を勝手に付けて
「信じる心」が実在することを認めるのが「(疑いを抱えながらも)信じること」だということに気づかせたのだという解釈もできます。
このように見ると、「信じること」はとてもメタ的なものなのでしょう。
>>12
かっこいい、と憧れる他者です。
>>16
人間は結局何かを信じてしまうという性質があるように思います。
「誰も信じない、なぜなら他人は信じられないから」という人も、結局「他人は信じられない」ということを信じてしまっている。動物のように、ほとんど何も信じることなく、反射的に生きられたらとても身軽なのでしょうが、そうもいかない。
だとすると、なるべくメタの回想を積み上げずに、とてもプリミティブな部分で物事を信じる人こそが、ややこしくない分だけ気持ち良く生きられるように思います。
打算的ではない=メタ的ではない好き嫌いなら、人間は信用できるのではないでしょうか。
ただ、打算的ではない好き嫌いはほとんど幻のような存在なので、見極めるのも難しいかと思います。
>>18
お返事ありがとうございます。
自発的に「選ぶこと」と「信じること」と「捨てること」が同様の行為になる場に自分を置くことができたなら、
メッセージをメタ的ではない形で感性のままに受け入れることができそうですね。
ちきりんさんからは信じることや成長することを諦めた人のしたたかさを感じる。
ハックルさんからは信じることや成長することを絶対にあきらめない人の執念、気迫、強さを感じる。
もしかするとハックルさんは先天的に諦められないのかもしれないですね。
それがハックルさんの天才性なのかなと思います。
どっちもあっていいと思うけど、やっぱりハックルさんみたいな人に憧れてしまいますね。
これからもブロマガ&生放送楽しみにしています。