昨日の続きである。

現代において、芸術家が描くべきテーマとは何か?


それは「インターネット」である。
インターネットこそ、現代社会を象徴するものだ。

その素晴らしいテクノロジーは、人類に全く新たな地平を切り開いた。
インターネットによって、人々はさまざまな革新を手に入れた。
情報の流通が人々の知力を押し上げ、人類は新たなステージへと突入した。
表現の幅が一気に広がり、さまざまな作品の制作が可能となった。
コミュニケーションの流れが大きく変わり、多くの人にチャンスの門戸が開かれた。
そんな、時代を変革させたインターネットこそ、今、芸術家が描くべきテーマである……

というのは冗談である。いや、描くべきテーマが「インターネット」というのは本当だが、新たなステージに突入したとか、さまざまな作品の制作が可能になったとか、多くの人にチャンスの門戸が開かれたなどというのは、実に些末なことで、今の時代の大きな流れをとらまえていることにはならない。それらは実に「つまらない」ことで、そんなものを真剣に取り扱っても仕方ないのである。


では、インターネットはどのように扱えば、今の時代を深々ととらまえることになるのだろうか?
どうすれば、インターネットを描くことで、後世に残っていくような作品とすることができるのか?
そのヒントは、ドストエフスキーの小説「罪と罰」にある。もちろん、他の作品にもヒントはいくつも転がっているが、ここでは分かりやすく、「罪と罰」を例に話を進める。

昨日の記事でも書いたように、「罪と罰」は、当時の世相を深々ととらまえてはいたが、描いたのは、それに対する人々の反応であった。それが主題だった。
だから、それを見習えばいいのである。
今の時代においても、インターネットそのものを描いたのでは意味がない。インターネットに対する、人々の反応を描かなければならない。

それも、人々が「深々とそれに影響されているさま」を描かなければならない。ひょいと流行に乗るような軽佻浮薄なさまを描いても仕方がない。
インターネットでいえば、最初に挙げた明るい希望のようなリアクションこそが、軽佻浮薄なさまである。新しいものを見れば、人はその新奇さから、自然と新しい可能性を見出そうとする。
しかし、そんなのは誰でもできることで、芸術家のすることではない。芸術家は、その奥にある、まだ誰も気づいていない、あるいは意識してはいないけれども、しかし真に大きな影響を受けているもののことを描かなければならないのである。

ところで、「人々が本当に大きな影響を受けるもの」というのは、「意識化」できないという特徴がある。
例えば、人は「マインドコントロール」に弱い。意識的に勧誘されたものには抵抗できるが、無意識の領域で勧誘されると、それに抗うことは難しいのだ。
だから、インターネットも、人々がそれを意識できるものは、影響が小さいということができるだろう。前述した明るい希望的な反応は、だからその分だけ影響が小さい。
逆に、人々が意識できないものは、影響が大きい。インターネットにおいても、人々が無意識のうちに取り込まれ、抗えないようなものこそ、非常に大きな影響を受けるのである。

また、そういう無意識の領域に及ぼされる影響というのは、必ず「矛盾した様態」となって表れる。
例えば、新興宗教にマインドコントロールされている人は、自分では状況を改善しようと思ってしていることでも、他の人から見ると破滅に向かって進んでいるように見える。オウム真理教の起こした地下鉄サリン事件などは、その最たるものだ。
つまりは、人々の「矛盾した様態」の中にこそ、人々が真に大きな影響を受けているものを見つけるヒントがある。だから、人々が真に大きな影響を受けているものを探す場合には、人々の矛盾した様態を探せばいいのである。その中にこそ、人々が真に大きな影響を受けているものが隠されているのだ。


これをインターネットに当てはめてみる。
インターネットの真に大きな影響を探すときには、インターネットによって矛盾した行動を引き起こされている人を見つけ出すことである。特に、地下鉄サリン事件の加害者のように、自分は良かれと思ってやっているけれども、端から見ると破滅に向かっているようにしか見えない行為をしている人を見つけ出すことだ。その人の内面を探ることこそ、インターネットの真に大きな影響を見つけ出す一番の方法なのである。

では、今の時代に自分は良かれと思ってやっているが、端から見ると破滅に向かっているようにしか見えない人というのは、一体誰か?


それは、