「リビドー」とは、フロイトによると「性的衝動を発動させる力」ということになる。ユングによれば「すべての本能のエネルギー」だ。
ここでは、この両者を含有した言葉として用いたい。人間の、性欲を含めた全ての「理性ではなく無意識から発露する思い」をリビドーとする。

リビドーはまた「気分」とも言い換えられる。これに対比するのは「考え」である。
物語を「型」で書こうとすると、どうしても「考え」に則ってしまい、なかなか「気分」の入り込む余地がない。型でがちがちに固められたものとなる。
この「がちがちに固められた映画」の代表格が、「インサイド・ヘッド」だ。それはもう、一分の隙もなく固められていた。
しかし、それゆえ窮屈な印象を否めない。あまり型で固めすぎると、どこかでだいじな魅力をそぎ落としてしまう。

そこで、その固さを補うものとして、気分――則ちリビドーを用いることがだいじとなってくるのだ。

リビドーを