
野球道とは負けることと見つけたり:その12(1,630字)
1951年、蔦文也は池田高校の監督に就任したが、ベンチに入ることはできなかった。当時の規定で、元プロ野球選手は引退後一年間、監督になれないという高野連の規定があったからだ。それでこの年だけ、文也は球場の観客席で試合を見守ることとなった。
この年の池田は、エース蔵の活躍で二回戦を突破し、準決勝に進出する。この試合に勝てば決勝に勝ち残りの二校に入り、勝っても負けても南四国大会に進める。つまり準決勝は、事実上の決勝戦ともいうべきだいじな試合だった。
その対戦相手は鳴門高校だった。前年夏の大会では甲子園で準優勝し、そればかりか今年の春に甲子園で優勝したばかりの超強豪だった。つまり日本一の高校だ。この大会でも優勝候補の筆頭で、下馬評では鳴門の圧勝だった。
その通り、鳴門はエースを温存し、二番手投手を先発させた。ところが、池田はその二番手投手を打ち崩し、大量5点を先制する。そうして、慌てて相手エースを
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