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ファンはより内側に自分のポジションを置くことによってコンテンツの外側を志向し、
非ファンはより外側に自分のポジションを置くことによって内部を志向する。
内部から見て動的にタイムラインが並行していく様を追いつつ瞬間的なカットを外部の他者の想像力に訴求していくほうが、
外部から見て静的にタイムラインが連続していく様を追いつつ継続的なシーンをさらに外部の他者の想像力に訴求していくよりも
審美眼を研ぎ澄ませるということでしょうか。
コンテンツを外部から開くよりも内部から開いたほうが。
>>1
そうですね。内側にいると近い分だけ視野が狭くなり、また動きも間近で見ているだけ、見えにくく、とらえにくくなると思います。バッターボックスに立っている感じでしょうか。外側にいると視野も狭くなり、動きも遠くで見ているので、見えやすく、とらえにくくなると思います。ベンチから試合を見ている感じでしょうか。で、バッターボックスに立っているのとベンチから見ているの、どっちがそのボールを打つことができるか、という話だと思います。
>>2
返信ありがとうございます。
>バッターボックスに立っているのとベンチから見ているの、どっちがそのボールを打つことができるか
バッターの目線を原点にした主観からの投手や捕手との呼吸・タイミングをベースにしたほうが選球眼が磨かれそうな気がしますね。
そして打った後には、逆に、俯瞰の視点から客観的にグラウンド全体を想像したほうが選択肢が増えて、フィードバックの効果も高まると思います。
ファン=客観的でないみたいな風潮ありますよね。短絡的というか、思考の節約ですよね。
ネットの普及で討論しやすくなってファンが批評家になっていってる気がしますね。言い合うのは楽しいですからね。
批評家は『自分が判断すること』に価値を見いだすので、お金を簡単にださない、
ちょっと自分に響いたものを評価することで自分の審美眼をけがしたくないというか。
よくいえば、生真面目です。安易な『神認定』だと言うことを控えている。
悪く言えばプライドが無駄に高く、『自分の評価する力』を他人にどうみられてるかまで意識してる気がします。
批評家って割とどうでもいいことばっかきにしてるんじゃないですかね。僕自身結構そういうところあるんで(笑
物事を判断するのは、好きか、好きじゃない(興味ない)か、それだけでほんとはいいんですけどね。
理由をつけたがるのは悪い癖だなと自分にいつも思ってます。映画とか音楽とか、言葉にできないことばかりです。
審美眼とか感受性とかって、もっとシンプル、なはず(笑
>>4
物事を判断するのに「好きか好きじゃないか」だけだと、例えばオウム真理教を好きな人は、教団の教えを無批判に受け入れてしまうことになります。そして実際に、そういう人が殺人を犯してしまった。その一方、オウム真理教を好きじゃない人は、「殺人はいけない」と容易に気づいた。だからみんな、「好きじゃない方がいい」と考えるようになったのです。
しかし、オウム真理教を好きでいながら、殺人はいけないと気づいた人たちもいると思います。こういう人は、オウム真理教を嫌いな人より「殺人はいけない」と判断するのが難しかったと思います。だから、そこでオウム真理教を嫌いな人以上に審美眼が鍛えられた――ということはあったのかと思います。
>>5
『今すぐ非ファンの客観的な立場はかなぐり捨て、一ファンとしてそのコンテンツを好きにならなければならない。そういう過酷な環境にあえて身を置くことでしか、審美眼を養える術はないのだ。』
『物事を判断するのに「好きか好きじゃないか」だけだと、例えばオウム真理教を好きな人は、教団の教えを無批判に受け入れてしまうことになります。そして実際に、そういう人が殺人を犯してしまった。』
ファンでない人間が客観性を捨てることに意味があるんですね。
今思えば、たしかに目についた新しい物にとにかく手をだしていった結果、
たくさんの物事が連鎖的に好きになりましたね。
自惚れていえば、感受性が豊かになっていった気がします。
しかしそれが僕に審美眼があることの証明にはならないですけど。