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 ――さて、前回前々回と何やかやで青識稿ばかりをやり玉に挙げてしまいました。しかしことの発端は「オタクであり、フェミニストでもある」と自称する中村香住師匠の書いた記事にありました。ことが前後しましたが、そんなわけですから最後に、中村稿にも軽くツッコミを入れておきましょう。

・新婦は病める時も健やかなる時もジェンフリを信じることを誓いますか

 もっとも、中村師匠の欺瞞については既にそれなりに書いています。
 が、以前予告した点についてはまだ解説をしていません。
 師匠がポルノの規制について、

一律の法規制を求める人は少なくとも現代では多くない。


 と述べていることについて、突っ込んでおきましょう。
 これは確かに、例えば上野千鶴子師匠も一応、表現の自由クラスタとのデートの場でそのように発言していました*1し、青識が絶賛する牟田和恵師もまた、同種のことを言っていました*2
 とはいっても、上野師匠は自らの法規制をよしとしないスタンスを「フェミの中では珍しい」と言っていましたし、果たして「多くない」というのが本当なのかは、ぼくにはわかりません。大体フェミの言葉なんて瞬間瞬間で変幻自在、千変万化するもので、信頼など置けませんしね。
 牟田和匠の言い分は「国家は信用ならんから、こんな重大なことの舵取りを任せるわけにはいかん」というものなのですが、そもそも多くのフェミが既に行政に入り込み、ジェンダーフリーの推進やらセクハラ関連などの法の改悪やらを積極的に行っているのだから、法規制にナイーブなフェミが多数派とは思えません(こうした事実について、表現の自由クラスタは驚くほど関心なさげです)。
 しかし、法規制をこそ一番の論点にしそうな青識は、前回も書いたようにこの箇所を丸っとスルーしています。それは何故か。
 ……いえ、前回はつい手癖で「摩訶不思議」などと形容してしまいましたが、よく考えると大して不思議ではありませんでした。
 というのも、近年の「ツイフェミ」による萌えキャラバッシングは基本、法規制を求める運動にまではなりませんでしたから。例えば彼女らが政治家にロビイングするなどといったことは、なかったはずです(もしあったらご教示ください)。
 逆に言えば、中村師匠の言い訳は「法を変えようとは言ってないんだからいいじゃん」というものでしかありませんが、当然、いいわけはありません。
 青識は中村師匠が「ツイフェミ」たちが萌えキャラに文句をつけてきた事実をスルーしていることが不誠実だと批判しましたが、実のところ師匠はそうした「ツイフェミ」たちの振る舞いを、別に悪いことであるなどと思ってもいないことでしょう。
 前回もご説明したように「ラディカルフェミニズム」とは、「法律をいろいろいじったけど、自分たちの思い通りにならなかった。だったら人の意識そのものを作り替えよう」というおぞましい思想です(表現の自由クラスタの流布した「ポルノを憎むフェミ」という定義は間違いだとは言い切れないけれども、極めて不充分な、歪んだものです)。そしてジェンダーフリーを称揚する現代のフェミニストは、中村師匠を含め、全員がラディカルフェミニストなのです。
 この中村師匠の論文はサブタイトルが「エンパワメントと消費の狭間で」というものであり、これは師匠のスタンスを極めて的確に表現しています。
 師匠は

まず、こうしたコンテンツが資本主義下におけるビジネスとして成り立っている以上、コンテンツを享受する消費者は「まなざす側」であり、コンテンツを提供する女性演者や女性キャラクターは「まなざされる側」、つまり「客体」であるという非対称性が生まれる。この時点で、女性のある種の「客体化」であるという批判は免れない。


 などと言っており、そもそもが「萌え」の第一義を問題であるとしているのです。
 師匠はさらに以下のように続けます。

しかし、「消費」自体をやめることはできないとしても、少しでも「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。


「お前は何を言っているんだ」と尋ねたいところですが、ここまでで明らかになったように、そもそも師匠は「萌えは悪」と考えているのだから、「何とか萌えを悔い改めさせよう」との発想に至るのは、全くもって、何ら不思議ではないのです。
 むしろ、にもかかわらず師匠が

つまり、私の考えではジェンダー平等の実現を求めることに賛同することと、女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけることは必ずしも矛盾しないし、私は事実としてそれを両方やってきたということだ。


 つまりは、「私はオタクとフェミニストとを両立させているのだ」などと清々しく断言することの方が、了解不能なのです。

*1 上野千鶴子さんインタビュー@韓国・IF
*2実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件

・暖かな客体を築くことを誓います

 もっとも、これについても一応説明(言い訳)めいたことがなされてはいます。

しかし私は、社会の女性に対する抑圧のなかをくぐり抜けて彼女たちがどうにか工夫して生み出した、時に力強く時に繊細なさまざまな種類の女性性表象やそれを用いた表現に、同じ女性としてもエンパワーされることがある。


 何を言っているのかおわかりでしょうか。
「萌え」の中でも女性演者がガンバって演じているものはエラい、そうしたものは自分にとって快い、と言っているのです。
(しかし、師匠の言は演者に限られ、女性の、そして男性の絵師やストーリーテラーに目が行っていないのが、どうにも不思議です。ぶっちゃけ、アイドル(声優)が好きなだけでアニメや漫画などはあまり好きじゃないのかも……という気がしてしまうのですが)
 そもそも、「萌え」の中でもどのようなものに師匠がエンパワー()されているのか、具体的な例が一切書かれていないので想像する他はないのですが、師匠は1991年生。『プリキュア』が始まった頃、13歳です(さらに言うと最初期の『プリキュア』は『セーラームーン』同様、少々年長の視聴者を想定していました)。
 つまり上の仮定をいったん忘れるならば、師匠は『プリキュア』辺りのファンではないかと推測できる。
 前回もちょっとだけ『セラムン』に言及しましたが、近年(と言っても『セラムン』自体が三十年前の作品ですが)のフェミは「萌え」要素のあるオタクコンテンツであっても、女性向けである場合、肯定的な傾向にあります。
 表現の自由クラスタもまた、そうしたフェミニストを自分たちの女神として崇拝する傾向にあります。
 恐らく彼女らは「萌え」要素がある場合でも、そのコンテンツが自分に向けられて作られている、と感じた場合、肯定的に見るのではないでしょうか。
 とはいっても、今回の中村師匠の言を見れば明らかなように、フェミニストとしての彼女らは「萌えアニメ」の「萌え」部分を、肯定的に見ているわけではないのです。
 セーラームーンがミニスカートを翻しながら戦う様をぼくたちが視聴するのは、(青識のレトリックではなく、「女性を客体的に見る」という意味において)明らかに「性的消費」ですし、『プリキュア』はまだ性的要素が抑えられているものの、主人公の多くはピンク色のコスチュームに身をまとい、タイトルからしてもわかるように何より「可愛い」ことを主眼に置いています*3
 師匠の筆致(何か、女の子同士で切磋琢磨するようなアニメにエンパワーされるんだそうな)から推測するに、師匠はセーラームーンやプリキュアたちが勇ましく戦うことを、よしとしているのだと思われます。仮に師匠のお好みのコンテンツが『アイマス』だったとしても、単にアイドルのコンサートだとしてもそれは大差ないはずで、まあ、何か歌のレッスンとかをガンバってる様にエンパワー()されているのでしょう。
 しかし、では、もしプリキュアが「可愛く」なかったら、正直師匠はそれを好んだか……となると、それは疑問としか言いようがありません(海外のフェミは筋肉がついてて唇のぶっとい、キモい女性を称揚する傾向にありますが、これはあからさまにPCを先行させたものでしょう)。
 つまり、師匠はリクツの上では「女の子の能動性が素晴らしい」などと言いつつ、実際には萌え的な部分、即ち「従来的な女性ジェンダーを踏襲した部分」にこそ惹かれている。だって「萌え」は女性の「まなざされ」性、大事な部分をミニスカで際立たせる客体性をこそ、本質としているのですから。
 そこを師匠は、「戦う」という要素を混ぜ込むことで誤魔化しているだけなのではないでしょうか。もちろん、「戦う」を「歌のレッスンをガンバる」に置き換えてもこれは同じです。
 言ってみればBLがキャラの性別をかりそめに男性にすることで、女性が自分自身の欲望を直視せずに済むよう設計されたコンテンツであるように。
 そう、少なくとも彼女らにとっての『セラムン』はBLなのです。

*3 自分たちの嗜好に対するもう一つの言い訳として、上に書いたような若手のフェミニストたちはセーラームーンは「まなざされている(客体的)」のではなく「まなざさせている(主体的)」のだ、みたいなことを言ったりもしますが、それは常に両価性(どっちとも取れる曖昧さ)をはらんだものであり、自分の好きなキャラや作品だけを任意にそのように認定するだけなのだから、詭弁という他はないでしょう。

・末永いお幸せをお祈りします

「萌え」を愛しつつ、それは聖書の教えに背くことだと気づき、必死で教会で懺悔を繰り返す中村師匠。   
 聖書を拡大解釈することで、「萌え」をも愛してもいいのだと思い込む青識。
 まことにお似合いの二人という他、ありません。
 青識稿の最後は、以下のように締められています。

 しかし、いずれ、オタクとフェミニストとの対立構造を解消する方法について、正面から議論を交わしてみたいと私は思う。私もまた、この対立は超克可能なものだと信じるがゆえである。


 何か北田師匠みたいですね。
 数ヶ月後には青識が中村師匠をトークイベントという名のデートへと誘い、そこで「フェミ様、オタク文化を何とか見逃してくだせえ」と土下座外交を繰り返し、しかし後日中村師匠がブログでグチグチと文句を書き連ね、にもかかわらずまた青識がnoteで「みなさん、フェミを信じましょう、対話をしましょう」と泣きわめく……といった展開が待っているのではないでしょうか。
 青識は「超克可能と信じる。」と言っていますが、そう、まさに超克可能でしょう。
 それは、フェミニズムによる萌えの殲滅という形をもって実現するはずです。
 それについては、またnoteの課金部分で述べています。
 それほど大したことではないのですが、ここまでの展開に興味を持っていただけた方は、ご購入いただけると幸いです。