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 さて、前回の続きです。
 未読の方は、そちらから読んでいただくことを推奨します。
 本稿では『STAND BY ME ドラえもん2』を「ドラ泣き」と呼称、また前作と区別をつける時は『1』、『2』と表記します。

 前回では宇多丸師匠がフェミニズムに洗脳され、恋愛も結婚も否定していることが明らかになりました。
 もはや「映画評論家」と称する職業には、ポリコレの洗脳装置、以上の存在意義がありません。
 しかし師匠の発言については、他にも違和を感じる点がありました。
『1』において、大人ののび太は小学生ののび太に「ドラえもんに会っていかないか」と誘われ、「彼は子供時代の友だちだから」とそれを拒んでいます。いえ、ぼくも観たのですが、そこは覚えてませんけどね
 宇多丸師匠はここを『1』の数少ない長所であり、『2』ではそれをひるがえして大人ののび太が平然とドラえもんと会い、その道具に頼っていることを批判していました。もちろん両作のつながりが悪い、という意味では正しい批判なのですが、しかし、と思います。
 そもそも前作の「ドラえもんに会わない」という選択自体が、おかしくはないでしょうか。(本作がフォーマットにした)原作の「45年後」でも、初老ののび太はドラえもんと会っています。そこで二人は「久し振り」と挨拶するものの、感激に抱きあうでもない。つまり、ドラえもんはいずれ(おそらくは小学校卒業後くらいに)のび太の下を去ると想像できるのですが、同時に人生の端々で再会していると思しいのです。
 そもそものび太はおばあちゃんとも、折に触れて「再会」しているのだから、ドラえもんとのそれをタブーとする理由はどこにもありません
『1』を評した回でも師匠は「ドラえもんと別れる話」である「さようなら、ドラえもん」を大仰に称揚しつつ、しかしながらその直後に描かれた「帰ってきたドラえもん」に「のび太の成長が否定された」と少々の不快感を示しています。
 いえ、師匠の評は「ある意味、イニシエーションが挫折したと言えなくもないが、しかしあらかじめドラえもんとの別れを暗示し、内包することによって『ドラえもん』は名作となった、また、のび太の成長というテーマそのものは映画版に引き継がれた(大意)」といったもので、これはぼくがかねてよりしている主張と全く同じです。
 もちろん、ぼくと同意見なのだからそこは同意できるのですが、しかしあまりにも師匠が「成長」、「卒業」を強調する辺りに、ぼくは違和を感じずにはおれないのです。
 宇多丸師匠は繰り返し、『ドラえもん』を「のび太という主人公の人生をどう立て直すかという成長譚」と言っており、いうまでもなくそこにぼくは全面同意するものですが、しかし師匠は「ビルディングスロマン」を金科玉条とした「べき」論に囚われすぎ、「成長してないからけしからん」と言いすぎ、ということができるのです。
 しかし、のび太が怠け者なのは、男の子が目指せるものがなくなったからでしょうがないじゃん、というのが前回でのぼくの説明でした。

 実は去年は本作以外にも『ドラえもん』が上映されています。普通の、アニメの劇場版である『のび太の新恐竜』です。
 こちらについても実は、『801ちゃん』の作者である小島アジコ氏が極めて緻密な酷評をしていました*1
 それは端的には『ドラえもん』とはダメ人間の肯定の物語であり、それを根性論、凡庸な成長譚にしたのは許せぬ、というもの。
 つまり、宇多丸師匠の本作についての批評と全くの正反対なのです。
 なるほど、では小島氏の『新恐竜』に対する酷評、それこそが正しいのか……となると、またそこも微妙なのです。
 いえ、この『新恐竜』評は極めて妥当であり、全くもって同感ではあるのだけれども、ただ、「のび太が怠け者であること」を無制限に肯定するのもまたどうか、そうなると「ドラ泣き」が正しいことになってしまうのではないかとの疑問も浮かぶのです。
 この両者の対立は、ぼくがかつてしつこく採り挙げた『ドラがたり』*2と『ドラえもん論』*3の対立と全く構造を同じくしています。

*1 ドラえもん のび太の新恐竜が自分にとってやっぱり度し難い理由。
*2 ドラがたり
ドラがたり とよ史とフェミニン兵団
ドラがたり とよ史とチンの騎士
「無残」以外の形容の難しい、嘘を根拠にただひたすらのび太、そして、のび太に共感する(と、著者が無根拠に信じ切っている)ロスジェネ世代へのヘイトスピーチを繰り返すという、狂った本。こんなものが発禁もされず市場に流れている理由が、ぼくにはさっぱりわかりません。
*3 ドラえもん論 すぎたの強弁
ドラえもん論 すぎたの新強弁
ドラえもん論 すぎたの強弁2020
基本、『ドラえもん』を称揚する体裁を取っているので、上に比べて不快感はありませんが、やはり左派がイデオロギーにこと寄せて作品を捻じ曲げる、粗悪な評論に過ぎません。

『ドラがたり』において稲田豊史師匠は「のび太はダメ人間だから駄目だ、成長しようとしない」と虚偽の限りを尽くし、『ドラえもん』という作品を罵り否定しました。
『ドラえもん論』において杉田俊介師匠は「のび太は永久にダメ人間なのだ、だからよい」と強弁の限りを尽くし、『ドラえもん』という作品を称え肯定しました。
 二人は全くの真逆のスタンスを取っているように思えるのですが、共通点もあります。一つに言っていることにほとんど事実の反映や論理的整合性がないこと。二つ目にフェミニズムにどっぷりと浸かった結果として、キモいジャイ子萌えの限りを尽くしていること。
 正直、ぼくのスタンスは微妙であり、当ブログの愛読者の方にも伝わっていないのでは……との懸念があるのですが、要するにぼくが何故、稲田師匠ばかりでなく(『ドラえもん』を一応、誉めている)杉田師匠を批判しているかとなると、『ドラえもん』は必ずしものび太の現状をただ肯定し、「そのままでいい」と言い続ける作品ではないからなのです。
 原作にはのび太が父親となった自分に会いに行く、「りっぱなパパになるぞ」というエピソードがあります。ここで大人ののび太はいまだ冴えない男のままであり、子供ののび太を失意させるのですが、同時にまだあきらめていない、勝負はこれからだとも語るのです。
 そうしたある種、ナーバスなテーマを内包する『ドラえもん』という作品から、偏った一面的なメッセージしか受け取ることができず、弱者への憎悪を隠すことができない稲田師匠は狂ったようにのび太を罵り倒し、男性は幸福になってはならぬのだと考える杉田師匠は、のび太は一生ダメなのだと小躍りをし続けるのです。
 ぼくとしては小学生向けの漫画すら正しく読めないこのお二人の方が、のび太の何億倍も心配なのですが。
 結局、杉田師匠も宇多丸、稲田両師匠も一見スタンスは真逆ですが、実のところ同じ穴のムジナでした。
 三人とも「男の子の内面」、つまり弱い男の子の辛さ、そして同時に弱いままでいたくないという気持ちなど認めてはいないのです。

「ドラ泣き」のクライマックス、(大人の)のび太が結婚式に戻り、しずかちゃんに「ぼくはぼくが幸福になるために戻ってきた。ぼくが幸福になることで、君も幸福にできるのだ」と告げ、しずかちゃんは「よくできました」と(上から目線で)それを受容します。宇多丸師匠はこれに怒り狂っており、そしてまた、ただひたすらに身勝手な振る舞いを繰り返した挙句のセリフがこれだという点で、ぼく自身も師匠に完全同意するのですが(本作においてしずかちゃんは、周囲に迷惑をかけまくるのび太に対し「そのままでいいのよ」を繰り返しています)、しかしある意味、これは極めて深いセリフです。
 結婚によって男性が幸福になることは、今の世の中では(そのゴールに辿り着く過程も、ゴールインして以降も)極めて難しい、男はただ、「責務」を果たすためにこの世に生まれてきて、「結婚」もまたその一環に他ならない、と考えざるを得ないのですから。
 だから仮に本作のクライマックスに至る「過程」がそれなりに描かれていれば、のび太の最後のセリフも素晴らしいもの足りえた。しかし、そんな「過程」は描きようがない。
 男性にも幸福になる権利はあるはずですが、そこまでの「過程」、そうなるための「方法」など、誰にも、まるで、さっぱり、とんと、見当がつかないのだから。
 男性の幸福というものの不可能性を、山崎監督は敢えてのび太にムカつく言動を繰り返させることで、敢えて物語を徹底的に破綻させることで、描破してみせました。そしてまた、そうすることで「男性の敵」をも、炙り出してみせたのです。

 最後に、もしあなたが『ドラえもん』の単行本などお持ちならば、「雪山のロマンス」を見直していただきたいと思います(てんとう虫コミックス第20巻です)。そう、のび太としずかちゃんの将来が確定するエピソード。ここでしずかちゃんは「側にいないと危なっかしくて心配だから、のび太さんと結婚する」と告げます。
 宇多丸、稲田師匠が発狂する様が、杉田師匠が随喜の涙を迸らせる様が目に見えるようですね。
 しかし――このセリフは最後の最後に、そう、おばあちゃんの時と同じ「オチのギャグ」の前振りとして言われることなのです。
 タイムテレビでこれを見た子供ののび太は「こんなみっともないの、イヤだ」と嘆き、ドラえもんは「それなら、もう少し頼もしい男になれ」と言うのです。
 これは「結婚は確定したが、これでよしとは言えない」(相変わらずダメなのび太、しかし成長しようとする意志もある)という、絶妙な落としどころだと思います。
 その、「話の流れ」を読めない者たちが、勘違いしたまま一喜一憂している、そして彼らはそんな貧相な「評論」でドラえもんを謀殺し、世に害悪を垂れ流しつつ飯を食い続けている、というのが、この国民的コンテンツを巡るお寒い状況なのです。

 ――さて、今回はこんなところですが、ちょっとだけ過激なオマケを、課金コンテンツにしたいと思います。
「ドラ泣き」の立ち位置というか、時々言っている「オタク文化の黄昏」の一端に、本コンテンツを位置づけての感想を、ちょっとだけ。←よければ、ここをクリックして見てみてください。