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※この記事は、およそ10分で読めます※
え~と、一応読んじゃったので軽く押さえておきたいのですが……。
その前に、本稿をお読みいただいている方の中で、『パーマン』の動画をご覧になっていない方はいらっしゃるでしょうか。
できればそちらを視聴後、本稿をお読みいただきたいのですが、ごく簡単にここまでの経緯を説明しますと、今まで『ドラえもん』評論というのはいくつか出ている。が、リベラル寄りの、フェミニズムに大きな影響を受けた論者たちの言説はほぼ、言いがかりとしか言いようのないものである。
「しずちゃんを嫁にするのがけしからぬ」。
「ジャイ子を蔑ろにするのが許せぬ」。
フェミニズムに影響を受けた者はフィクションにまで牙を向けてくるということが、はっきりとわかりますね。
そうした「評論」については今までも当ブログで採り挙げてきたのですが*1、つい最近、出版されたのがこれ。動画の中では通読しないままに採り挙げることになったので、ブログで補完するかもと予告めいたことをしてしまったのです。
が、いざ読んでみると、そこまで熱心に批判を加えたいという衝動を感じませんでした。なかなかいいと思える部分が二割、牽強付会だなあと思える部分が六割、許せぬという感情を覚えたのは二割といった感じでしょうか。
そもそも本書では『大長編ドラえもん』について書かれた第二章に、全体のほぼ半分のページが割かれています。第三章はSF短編について語られており、本来の『ドラえもん』については第一章とまとめというべき第四章で語られているのみで、これでは『ドラえもん』以上に『大長編』にページが割かれていることになります。
『大長編』は劇場版アニメの原作として描かれたもので、宇宙なり恐竜時代なりで大活躍する冒険譚。そうした性質上、語られるのは自然と地球や人類といったマクロな、スケールの大きなテーマになります。普段の作品とはあくまで別作品なのです。
本書の、その辺りについて語る筆致は上に書いたとおり牽強付会の念を拭えないのですが、どうしても受け容れられない、論破せねばと思わせるような主張がなされているわけではありません。
ただ、さらに言うと本書の副題は「ラジカルな「弱さ」の思想」。
それと同様にネット上の本書に関するインタビュー記事を見ていると、本書は『ドラえもん』を「男性学」の視点で語ったもの、のび太の「弱さ」について語ったものであると盛んに主張されています(第一章冒頭でも同様の論旨が展開されているのですが、まえがきではもっぱら『大長編』にばかり言及がなされているのは、何だか象徴的です)。
が、本書の半分を占める『大長編』論がそうしたミクロな話題に焦点を当てたもの(という側面もあれど、メインがそう)であるとは、どうにも言い難い。
そこが、本書の一番まずい、看板に偽りのある点だとも感じました。
ぶっちゃけると本書は、セールスポイントとしては「男性学の専門家が語る『ドラえもん』」というところにあるのでしょうが、作者が実際に語りたかったのは『大長編』(劇場版アニメ)の方……というねじれが生じているのです。
ということで本稿では本書の半分以上をばっさり切り捨て、上の副題に即した面を中心に語っていきたいと思います。はっきり言うと第一章だけになってしまいますが、それこそが著者である杉田俊介師匠のホームグラウンドである「男性論」「フェミニズム」で『ドラえもん』を語った部分だからです(何とまあ、それでも前後編になってしまいましたが……)。
*1 源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか
ドラがたり
ドラがたり とよ史とフェミニン兵団
ドラがたり とよ史とチンの騎士
●ポンコツ、ドラえもん
さて、本書が編まれたきっかけは、杉田師匠が大学で学生たちから、「弱い人物と言えばのび太が連想される」といった声を聞いたからだと言います。
杉田師匠は(別に詳しくは知りませんが、以前採り挙げた著作*2などを見るに)言ってみれば「弱い男としての自分」みたいなイメージでセルフプロデュースしている御仁。以前、『現代思想』の「男性学」特集で執筆者がどいつもこいつも気持ちの悪い「森岡正博萌え」の様相を呈していることを指摘しましたが*3、「男性学」自体が「男だけど弱いボク」というのを理由にフェミの方舟のチケットを何とかせしめようという政治運動、という側面を強く有している(そして、「ボクは弱い、ボクは弱い」と自称しつつ、彼らがチケットを得るためには他の男たちに身も凍るような憎悪を向けることも、度々指摘してきました)。
そんな彼らが、考えてみれば「のび太という生き方」の政治利用を考えないはずが、最初からないわけです。
もっとも、杉田師匠ののび太評は、それほど外しているとは思いません。
そこで述べられるのは、今となっては誰もが知る「のび太の結婚前夜」でのしずちゃんのパパのセリフ(のび太は他人の幸福を喜び、不幸を悲しむことのできる人間である)、『のび太の恐竜』のフタバスズキリュウを始めとして、動物や植物、無生物(台風のフー子など)にも愛情を注げる人物であるなど、まあ、語り尽くされたこととはいえ、別段異論はありません。
また、
そんな中で、のび太の性格は、戦後日本の去勢された「男の子」(オトナになれないコドモ)のシンボルでもあります。のび太は「永遠に成熟できない私たち」の自画像でもあるのです。
(28p)
といった指摘もなかなか秀逸です。
さらにはこれを大塚英志氏の「アトムの命題」(いつまで経っても成長できないアトムは戦後日本の男性のカリカチュアライズである、といった指摘)と絡める辺りも唸らされました。
……いえ、動画を観てくださった方はご承知の通り、ぼくはその指摘を、さらに深化させて語っているのですが。
動画でも述べたように『ドラえもん』大ブームの80年代に出された『ドラえもん研究』において、のび太は「何もしない世代の誕生か」と語られています。若者の時代、反体制の時代である70年代に登場した矢吹ジョーや星飛雄馬などに続く者としてのび太が出てきたことは、全共闘世代にしてみれば、相当にショックだったことでしょう。これはまた、サブカルがオタクを見る時の視線にもつながるものです。
しかし、首をかしげてしまうのは以下の記述。
ドラえもんもまた、根本的なところでは成熟できないけれども、それでも自分の存在理由を内省して、のび太との関係=友情を見つめなおし、成長しようとしているのです。
(52p)
これ以降、師匠は「ドラえもんもまた、弱い」と続け、それは本書の主要な主張なのですが、どうにも首肯できません。
師匠はその証拠として、初期のドラえもんが非常に切れやすいキャラであったことを挙げるのです。
「のろいのカメラ」をご記憶でしょうか。のび太が泣いて帰ってくると、ドラえもんはのび太が口を開く前から「またスネ夫だな」と激怒し、復讐のために飛び出していきます。むしろ強いキャラだったのですね。
しかしこれは、当初の『ドラえもん』が『オバQ』に連なる作として描かれていたからなのです。
今まで書いたことがあるかどうか忘れちゃいましたが、フロイトは人間の心を自我、イド、超自我に腑分けしました。自我は簡単にいえば意識そのもの、イドは欲望です。正ちゃんは「自我」であり、Qちゃんは「イド」、つまり正ちゃんの拡張した「欲望」そのものなのです。正ちゃんが「空を飛べることができたら、学校に遅刻せずに済むのに」と考えると、すかさずQちゃんは彼を乗せて空を飛ぶ。『オバQ』においては正ちゃんが始めた遊びを途中で飽きて放り出してしまうのに、Qちゃんが継続するといった展開が非常に多く描かれていました。二人は実は、同一人物だったのです*4。
『ドラえもん』はのび太の両親を過保護に、のび太をことさらに無気力(初期ののび太はスネ夫に自慢されても素直に感心しているようなキャラでした)にすることで、やはり少々大人向きの作劇を狙っていた(上の構造を踏襲しつつ、よりそこに大きな意味づけを持たせた)のですが、作品構造そのものは『オバQ』を引き継いでいた、と言えるわけです。
つまり、確かに連載初期とそれ以降では、ドラえもん自身のキャラクターは異なる。しかしそれは作品の構造自体が変化したためである。そこを「ドラえもん自身の作中の成長」と強弁するのは、それこそドラえもんの絵が初期と後期では違うこと、つまり初期は太っていたのがだんだんと頭が大きく、身体が小さく描かれるようになったことを根拠に「野比家ではロクにものを食わせてもらっていない」と解釈するようなものではないでしょうか。さらに、そこまで言うならのび太の性格の変化、つまり初期ののんびり屋やから作品構造の変化以降、少々ちゃっかり屋になったこともまた「成長」であるとすべきでしょう。
他にもドラえもんの「弱さ」として挙げられるのは「未来のデパートでセール品になったこと」。
そりゃ「ドラえもん大辞典」での話や!!
これは企画ものの記事に描かれたことで、本編のものではありません。
もちろん、そうは言っても藤子Fの手によるものだから公式設定だ、ということは可能ですが、そりゃ「優秀なロボットであった」ではギャグにならないからそうしただけでしょう(そして、これが突き詰められたのが藤子Fのアシスタント、方倉陽二氏による『ドラえもん百科』だと言えます。これはドラえもんブームの際に描かれたやはり企画ものの漫画で、ここでは「本来、主役ではないドラえもんを主役として引っ張り出してきたがために」、やたらとドラえもんに道化役を演じさせることになり、結果、本編とはまた随分と違ったドラえもん像が描かれる作品となりました)。
他にも後期作品「ションボリ、ドラえもん」において、ポンコツロボットのドラえもんより、ドラミの方がのび太のお守りとしてふさわしいのではないかと言われる話もまた、根拠に持ち出されます。
まあ、一応ドラえもんよりドラミの方が優秀とされているのは事実ですが、実は登場当初のドラミはそんな感じではなく、「家庭用の道具(「そくせき料理機」など)しか持っていないし、機械の扱いも下手な上にママのように口うるさい」存在とされていました。『パーマン』のガン子がそうであったように当時の「妹」は「萌え」の対象ではなく、男の子にとっての「敵」だったのです。
よく知られる、兄より良質なオイルを使っている、兄より頭が三倍いいなどの設定はやはり、上の「方倉設定」だったりするのです。しかし本書においてそこを指摘し、「ドラミもまた弱さを持っており、成長した」などとする箇所はないのだから、ぼくなんかは「あぁ、女の子はヒイキされていいなあ」なんて思ったりします。
もっとも、「ドラえもんの弱さはついのび太を甘やかしてしまう母性的なもの」という結論そのものは、全くその通りだと思いますが、それは今までに挙げられた、上の諸々とはあまりつながるものではありません。
結局、『ドラえもん』という作品が「弱さ」を巡る物語である、という杉田師匠の打ち出してきた主題は全く、正しいと思います。
ただ、「ドラえもんも弱い」はどうしても「弱さ芸人」である杉田師匠がついつい自らの芸風にこと寄せるため、テキストを強引に解釈してしまっている感が、非常にする。
ぼくがいつも言っている「『ドラえもん』はのび太の私小説である」、または「(Qちゃんと正ちゃん同様)ドラえもんとのび太は同一人物である」との解釈を導入すれば、別にわざわざドラえもんを「弱い」とする必要はないし、やはりそちらの解釈の方がいいのではないかなあ……というのが、ぼくの感想です。
*2 秋だ一番! 男性学祭り!!(その1.『非モテの品格』)
*3『現代思想 男性学の現在』(その2)
*4 もっともこの説自体は、実は虫コミックス版『オバQ』の巻末の解説で誰かが語っていたものです。
――さて、以上はホンの前振りなのですが……それでもう、それなりの文字数を稼いでしまいました。
次回はいよいよ「フェミニズム」「男性学」をフォーマットにした杉田師匠の『ドラえもん』論に踏み込みます。
待て、次週!!