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目下、『Daily WiLL Online』で新たな記事が公開されております。
「「お母さん食堂」まで標的に――過度な言葉狩りで墓穴を掘るフェミニストの矛盾」。
何とランキング四位の状態が一週間くらい続いています!
いよいよの記事の拡散など、お願いできれば幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします!
さて、少し前、宇多丸師匠のCG版『ドラえもん』への酷評について採り挙げました。
それと近しい政治的立場から『ドラえもん』を(事実を改変して)貶めるタンスの稲田豊史師匠の著作についてのレビューを採録しているのですが……。
今回はその第二回目です。
* * *
それはヒロインであるしずかちゃんについてです(源静香は原作漫画では「しずちゃん」と呼ばれることが多いのですが、本稿では「しずかちゃん」で行きます)。
フェミニストたちによる彼女についての俗論に、「女の友だちと遊ぶシーンもない、男の視点から描かれた無個性な少女」というものがあります。それについて上の書は「それはあくまでのび太視点の物語だからだ」と反論、本書でも同様な指摘がされています。
それ自体は納得のいくものであり、ここだけを取り出せば上の書も本書も「フェミニストの硬直した見識を、漫画評論家が打ち破った」書ということになるのですが、そこで心を許しかけると、著者がフェミニズムにどっぷりと浸かった偏向した『ドラえもん』評を始める……という点までが、両者共に共通しています。
というわけで今回は『ドラえもん』のヒロインについて語られた第五、六章から見ていくことにしましょう。
とはいっても何のことはない、要は上のような見解を述べたしかる後、稲田師匠はただひたすら、しずかちゃんへの罵倒を並べ立てるだけです。
皆さんご承知かと思いますが、しずかちゃんは成人後、「そばで見ていてあげないと危なっかしくてならないから」のび太との結婚を決意します。しかしそんな彼女のことを、師匠は「突出した才能を持たないため、自分よりも格下の男を選び、優位性を保とうとしたのだ(大意)」と説くのです。
「あぁ、そうですか」以外の感想が沸きません。よくある悪趣味な裏読み以上のモノではないでしょう。特段の理由もなく「ウルトラマンが地球を守るのは、実は地球を植民地化しようと狙っているからなのだ」と言われても「あぁ、そうですか」以上に返しようがないですよね。
そこを師匠はしずかちゃんの内心を勝手に「忖度」して大喜び。挙げ句、しずかちゃんが出木杉を選ばなかったのは「彼が自分で何でもできるから、自分の優位性を保てないからだ」と夢想します。
ちなみにCG版『ドラえもん』ではプロポーズした時、当ののび太はパニクっていて事態を飲み込めず、しずかちゃんは思わず「あら、思ったより喜んでくれないのね」と漏らしています。これもまた、彼女の優越心の表れだそうです。
こういうのを、牽強付会と言います。
また、同映画でしずかちゃんが出木杉のプロポーズを「あなたは一人で何でもできるから」と断るシーンに、師匠は「答えあわせ完了」と得意の絶頂です。
違います。
師匠が「母性が強い」「のび太が心配」という「最初から書いてある答え」を勝手に曲解し、その「書いてある答え」に向けて放たれたセリフを自らの妄想へと向けられたものであると、勘違いしているだけなのです。
一人で、「あっていない答えあわせをしている」だけなのです。
先の例えで言えばウルトラマンが劇中で「私は生命を懸けて地球を守る!」と叫んだのを見て、「俺の説通り、ヤツは地球侵略のために生命すらも懸ける気だ」とドヤ顔になるようなものでしょう。
しかし、一体、何故、どうしてこうまで師匠はしずかちゃんを憎むのでしょう?
のび太を憎む理由は、師匠の中の弱者男性への堪えがたい「弱い者虐め欲」にあると前回説明しました。しかししずかちゃんは別段弱者ではありません。
では何故……?
或いは本書をご覧になった方は、答えが喉まで出かかっているかも知れません。
そう、本書の五、六章は実のところ「しずかちゃんdis」以上に、極端なまでの「ジャイ子age」に費やされているのです。
いえ……師匠のみならず、近年、雑誌などでも妙にジャイ子を持ち上げるような言説が目立っているように、ぼくには思えます。女性作家さんがジャイ子をリスペクトするつぶやきがまとめられたこともありますし*1、トヨタのCMで、成人後を美人の女優さんが演じたこともあります(しかしこの「成長後のアニメキャラ」ネタのCMって本当にDQNにとってのアニメ消費の最後の聖域という感じですね)。
何故一部の人たちは、こうまで「ジャイ子萌え」に走るのか。
それをご説明するには、彼女についての解説が必要かも知れません。
周知の通り、ドラえもんはのび太の運命を救うためにやってきました。
第一話「みらいの国からはるばると」(てんコミ1巻)ではジャイ子と結婚することが、のび太の将来の不幸として描かれました。この時点で、ジャイ子はあくまで「不幸の象徴」という、言ってよければコマとしてしか描かれていません。それは、しずかちゃんが「のび太の視点から見た存在であるため、内面がそれほど描かれない」のと同様に。
しかしそれ以降、ジャイ子は数話で姿を消し、連載中期には全く登場しなくなります。そのままなら「ガチャ子」レベルのレアキャラとして終わったであろう、長らく忘れ去られた存在であった彼女は、しかし十年ほどのブランクを経て「漫画家志望の少女」との設定を付与され、再登場します。
これは当然、藤子・F・不二雄先生のキャラクターへの愛情故でしょう。それは丁度、連載初期に数回登場しただけで長らく忘れ去られていたスネ夫の弟である「スネツグ」が、後年、「実はアメリカに養子に行った」という設定で再登場したように、「後づけ設定による辻褄あわせ」でした。
漫画家志望という設定は、のび太の嫁という役割を失った彼女のキャラを立たせるためのものでしょうが、それは(弟という設定のスネツグが一人っ子の時代になったため、忘れ去られたのと対照的に)時代の波を受けたためとも言えました*2。つまり、「結婚を捨て、キャリアの道を選んだ女性」という解釈が可能な存在として浮上してきたわけですね。そこに、フェミニズムの世界観で世の中を解釈するという難儀な枷を背負った人々が、涎を垂らしながら飛びついた――そんな捉え方が、実のところ可能なわけです。
事実、師匠のジャイ子に対する視線はどうにもねっとりと絡みつくような熱を帯びています。
何しろ、F先生が「同じ名前の子がいじめられるとかわいそうだから」という理由でジャイ子の本名を設定しなかったという(通常は「いい話」として語られる)逸話は、師匠の手にかかるとジャイ子に「まともな人権を与えていなかった(89p)」証拠とされてしまいます。なるほど、キャラにまともな人権を与えていないエロ漫画など、即刻発禁にしなければなりませんな!
意外なことだが、その後の物語でジャイ子がものすごく性格が悪いとか、人間的にアウトであるといった描写はない。ガサツで、のび太への無邪気ないたずらに多少荷担することはあれ、悪意は感じられない。
(89p)
などと主張する師匠ですがもちろん、ウソです。何しろ第一話では屋根から落ちて木に引っかかったのび太を、彼女は「やあ、首つりだ、ガハハハ。」と大笑いしています。誰か、嫁にしたい人。
「のろいのカメラ」(てんコミ4巻)におけるガン子との共演をご記憶でしょうか。この時のジャイ子は、「生意気に暴れ回る、小さい女の子」という、のび太にとってママやジャイアンとはまた別ベクトルで手に負えない難敵としての登場でありました。
更に上の文章は以下のように続いています。
のび太をバカ扱いしたり、あからさまに同性の友達が少ないしずかのほうが、よっぽど難がある。
(89p)
「しずかちゃん、女友だちいない問題」については前のページで否定していたはずなのですが、ジャイ子を持ち上げるためにわざわざ蒸し返し、違ったことを言い出すのだからたまりません。
更に言えばこの後、「ジャイ子はのび太の意志を無視して求愛しているわけではない(大意)」などと書かれていますが、そもそもこの時期のジャイ子は下手をすれば幼稚園児とも思える幼女なのだから、そんなことをするはずがない。擁護のための苦しい詭弁です(採録に当たっての追記:正確に言うならば「基本、互いを嫌いあっているのだから求愛するわけがない」とすべきでしょうか)。
第一、「愛妻ジャイ子?」では、ジャイ子の将来が暴力でのび太を圧倒する猛妻として描かれています。これはてんコミ未収録作ではありますが、師匠が読んでいないはずはありませんから、意図的に隠蔽していると言わざるを得ません。
師匠ばかりではなく「ジャイ子推し」女子も第一話のドラえもんが見せた未来アルバムで、のび太が「満更でもない、幸福そうな表情をしている」と強弁する傾向がありますが、それもむろんムチャな誤読で、読み返せばのび太はジャイ子の尻に敷かれ、生活苦にやつれつつ、気弱げに微笑んでいるだけだということがわかるはずです。
ジャイアンの妹というアドバンテージで誰も逆らえないジャイ子を、いじめられっ子と強弁するのもわけがわかりません。
つまりジャイ子は、(物語内ではなく)メタ的な意味において完全にいじめの対象だ。
(89p)
「メタ的な意味において」って言われても困ります。要するに「ブス」であることを理由に忌避の対象とされているなど許せぬ、と言いたいのでしょうが、ブスでことさら性格もよくないのに忌避されないキャラが出て来たら、そっちの方が怖いでしょう。
先に述べたように、ジャイ子は決して「性格はいいのに、ブスだからというだけで忌み嫌われている」キャラなどではないし、そして漫画家として再登場してからは、少なくとものび太たちに嫌悪の対象としては扱われていないわけで、そこをねじ曲げて、のび太たち(そして『ドラえもん』ファン)が理不尽な振る舞いをしているかのようにミスリードしているのは師匠の方です。
前回も師匠は誤読の限りを尽くしていましたが、ジャイ子についてはひたすら「アナザーファクト」を創造することで彼女を持ち上げるという強攻策が採られているわけです。
のび太はムリやりに貶め、ジャイ子はムリやりに持ち上げる師匠。
人格のアファーマティブアクションは留まるところを知りません。
*1 のび太とジャイ子とセワシにまつわる歴史の謎と闇~SOWさんの考察を中心に
(採録に当たっての追記:ただしこの作家さん、どこかで男性と書かれていた気もします。今ちょっと調べたんですが、よくわかりませんでした……)
*2 ただし、ジャイ子再登場編は「ジャイ子がのび太をつけ回している、まさかフラグが再生したのか……と危惧するのび太だが、実は彼をギャグ漫画のキャラクターのモデルにしようとしてのことであった――」といったストーリーが展開されます。また、その作品が発表されたのは80年。女性の社会進出がそこまでかまびすしく言われていたとも思えません。
以上のような理由から、或いはこの漫画家設定そのものは単純にストーリー展開上の必然から演繹されて出て来たもの、という可能性もないではありません。
しかし、それにしても、一体どうして、師匠はここまでジャイ子に萌えているのでしょうか。
読み進めると、師匠は自らの身近にいた「サブカル女子」たちをジャイ子に準え始めます。
『ドラえもん』を好む男性に対しては「いい年齢をしてサブカルに耽溺」と貶めておきながら、女子たちを持ち上げる時は「『スタジオ・ボイス』のようなハイブロウなサブカル」を嗜んでいた、などと言い出すのだから、失笑を禁じ得ません。
彼女たちは、はなから望めない「男子受け」要素を自ら完全放棄し、歪な幼児性をたたえたお団子頭やサスペンダー、羽根つきランドセルや極彩色の靴下などで、自らの「メス性」を完全に塗りつぶしたのだ。
(103p)
おやおや、Fの感性を「非常に独善的な自己肯定(83p)」と罵っているのに、女性側の「幼児性」は完全肯定ですか。「女性性」を「幼児性」に変換し、密かにナルシシズムを享受しようとするこうしたやり方、ぼく自身はぶっちゃけキモいと思うのですが。これはBLに対して男性が感じるキモさといっしょで、傍から文句をつける性質のものではないけれども、ことさらに賞揚するものでもないでしょう。
こうした女子たちは、師匠にとっては「男に媚びを売らず、独自の価値観を貫き通す」格好のいい女たち、ということになっているようです。
何しろ師匠は、『がんばれ!ジャイアン!!』をサブカル女子たちを「追認」しての作であるとまで言い募るのです!
すごい!
すごすぎます!!
リベラル君とはオタク文化を貶める一方、好ましいものは泥棒し、まるで自分の手柄であるかのように言い募る人たちのことですが、しかし盗人の言い訳として、ここまで図々しいものは初めて見ました。
『がんばれ!ジャイアン!!』とは2001年、劇場版『ドラえもん』と共に上映された短編映画です。ジャイアンが漫画家を目指すジャイ子を見守るという物語で、「泣くなジャイ子よ」(てんコミ40巻)、「ジャイ子の新作漫画」(てんコミ44巻)をアレンジした作品。しかし原作は当然、それより早く描かれています。ジャイ子復活編の「ジャイ子の恋人=のび太」(てんコミ22巻)は80年、「泣くなジャイ子よ」、「ジャイ子の新作漫画」だってそれぞれ89、90年に描かれているにもかかわらず、それが90年代的サブカル女子を「追認」していると言い放つのだから、大した心臓です(アニメの方だってアレンジはあれど、サブカル女子を「追認」して加えられた描写があるようには、ぼくには見えません)。
フェミニズムというガクモンに関わる者は、自らの情緒という分厚いレンズで透過率ゼロになった色眼鏡で事象を捉え、自由闊達にねじ曲げる傾向にあるのですが、師匠もまた、と言わざるを得ないでしょう。
ただ、不思議なのは、師匠がサブカル女子がぶっちゃけ美人ではないことを、比較的あからさまに描写している点で、読んでいるとこちらがはらはらしてきます(『がんばれ!ジャイアン!!』のDVDパッケージではジャイ子が美化されて描かれているのですが、師匠はそれを大胆にも「気持ち悪い」と言っています!)。
そもそも論として、「サブカル女子」とやらが「男に頼らぬ」ことをモットーとする、と自称している存在なのかどうか、ぼくにはわかりません。しかし師匠は(丁度、北田師匠が「腐女子」をそうしたように)彼女らと「フェミニスト」を単線的に結びつけている、ということは見ていて伺えます。
そう考えると、上の引用からも垣間見えるように、師匠はフェミニストたちの「美という属性を自ら拒否した」という自己申告をそのまま鵜呑みにし、そうしたことを率直に語ってもいいものだと勘違いしてしまったのではないでしょうか。
つまりぼくからは、彼らはフェミニストたちが虚栄心から言ったタテマエ論を真に受けてしまった「マジメ君」というキャラに見えてしまうわけです。
しかし、そうした「ジャイ子系女子」の手放しの持ち上げは、決して女性にとって益するものではないでしょう。
師匠は篠原ともえ、光浦靖子の名前を挙げ、ジャイ子と並べ立てます。
他にも女芸人(ハリセンボンとか)を強引に持ち上げているのですが、女性に「キミはハリセンボンの誰それみたいだね」と言って、喜ばれるものでしょうか。これも想像ですが、ああいうのは「女性に向けた、自分よりもブスな女枠」としての位置にいる人たちなんじゃないでしょうかね。
篠原ともえなんてのは言うまでもなく既に忘れ去られた存在です。言っては悪いですが、全盛期に彼女を真似ていたいわゆる「シノラー」、今となってはほぼ100%、それを「黒歴史」化しているのではないでしょうか。本書でも篠原ともえ自身が後年、美人キャラとなったことを師匠自身が「裏切り者」と罵倒している箇所がありますが、そのこと自体が何よりもそれを実証しています。ちなみにぼくは光浦靖子と片桐はいりがごっちゃになっていたのでちょっと検索してみたのですが、案の定というか、「実は美人だった光浦靖子」みたいな記事がヒットしました。
つまり、師匠はジャイ子を持ち上げることで、「ママに誉めてもらえるに決まっている」と確信していらっしゃるように思えるのですが、ぼくの視点からは彼の背後に角を生やしたママの姿が見えていて、何というか、いたたまれないのです。
フェミニズムは、失敗したツンデレです。
男は悪だ、男は不要だ、私は女性ジェンダーなど超越した存在だ、と虚栄心で言い募るうち、それがシステム化し、全女性を不幸に追いやったのがフェミニズムです。
そして、上に挙げた「ブスタレント」たちが売れ出すや「実はいい女」と強弁し始めるのと全く同様に(ジャイ子についても、先の美人が演じる実写CMはまさにそれですよね)、フェミニストたちもまた地位を築き上げた後には、実にお気楽に「実はいい女」と自称し始めます。
以前、上野千鶴子師匠が「学会の黒木香」を自称しているのを幾度か紹介したことがありました*3。本当に、痛々しい、目を覆いたくなるような光景ですが、フェミニストが好きで好きでたまらない師匠こそ、こうした点について目を塞ぐべきではないのではないでしょうか。
そう、実は稲田師匠が意図的にスルーしている点は他にもあります。
『がんばれ!ジャイアン!!』はジャイ子のラブストーリーなのです。
ジャイ子は言わば、のび太に捨てられ、漫画に身を捧げた存在でした。
しかしやがて彼女は漫画マニアの少年、茂手モテ夫と交際を始め、共に同人誌を作るようになるのです。大変に残念なことですが、彼女は「男無用の女」などとして描かれているわけでは、全くないのです。師匠はそこを、(モテ夫について言及がないわけではないのですが)軽くスルーしている。
サブカル女子を必死で誉めているつもりが、今になって篠原を持ち出し、ジャイ子を真実を隠蔽して持ち上げることで、結果的に師匠はサブカル女子への「痛烈な風刺」をしてしまっているのです。
それはつまり、フェミニストも、サブカル女子も、誰も、「女性ジェンダー」を捨てる気など、全くなかったのだ、「女性ジェンダー」を捨てても、決して幸福になどなれなかったのだという事実への強烈なカウンターです。
リベラル君たちの「フェミニスト萌え」には、根底に強烈なミソジニーがあると、ぼくは想像します。女性が嫌いで嫌いで仕方のないリベラル君たちの淫夢には、「バカな女どもと違い、ボクのことをわかってくれる、男性ジェンダーを獲得したフェミニストのお姉様」「勇猛なフェミニズムの闘士」、「ボクたちと共にポルノを守ってくれるリベラルフェミニスト」が毎晩のように登場します。
しかしそれは非実在であったという事実の、身も蓋もない指摘に、本書はなってしまっています。
恣意的曲解にまみれた評論で草食系男子を侮蔑し、ウソにまみれた評論でサブカル女子を賞揚し、その両方ともに失敗を続ける師匠。
本書は果たして、どこに向かうのでしょうか。
*3 上野千鶴子師匠が山梨市での講演会を中止にされそうになった件