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2023年 女災歳時記
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2023年 女災歳時記

2024-01-07 19:30
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     早いもので、2024年が始まり、もう七日の歳月が経ってしまいました。
     今年も残すところ後僅か十一ヶ月と半月ばかり。みなさま、年越しの準備はよろしいでしょうか。
     ……と、毎年お約束のギャグを消化したところでさて、新記事です。
     毎年、年末年始に書き下ろしのまとめ記事のようなものを書いているのですが……まあ、特にネタもないので、特に工夫もなく、去年一年間のトピックスを順に上げて行くことにしましょう。

     それともう一つ。
     昨年、惜しくも逝去されました評論家の小浜逸郎氏。
     彼は独自の視点で「男性論(男女関係論)」を語ることも多く、『中年男性論』、『中年男に恋はできるか』、『男という不安』といった好著もあるのですが、中でも初期の著作『男はどこにいるのか』(1990)はそこに真っ正面から取り組んだ、名著です。
     バブル期のフェミニズムの台頭、それと機を同じくして叫ばれていた男性の危機といった状況に果敢に取り組んだ著で、アンチフェミ、弱者男性論者はまず、抑えておくべき基本文献と言えましょう。
     ともあれそんな小浜氏の著作について、来週語りあうイベントが開かれます。
     ご興味のある方はどうぞ、おいでください!

    1.タイトル:小浜逸郎「男性論」の世界
    ​2.レポーター:由紀草一
    ​3.日時:令和6年1月14日(日) 午後2時~6時
    4.場所:ルノアール四谷店3階会議室A
    東京都新宿区四谷1-3-22 ℡.03-3351-1052
    四ツ谷駅四谷口より新道通りに入ってすぐ左手
    5. 会費:1,600円(当日徴収)

    詳しくは以下へ!

    政経研究会・えん | Mysite 3 kohamaitsuo.wixsite.com

    1.暇空茜――ただの時事ネタとしてのフェミ

     ――さて、去年も似た趣向の記事で年始めの頃のトピックスを採り挙げては「古い話題だ、古い話題だ」と繰り返しました。「まだ一年と経っていないにも関わらず、今となっては大昔のできごとのように思える云々」と。
     それはやはり単に時間の影響だけではなく、2022年初頭(つまり、去年の記事で採り挙げげたトピックスの起こっていた頃)にはまだ、「表現の自由クラスタ」などの「ネット世論」への影響力が残っていたからではないか、一昨年から去年にかけて、それが著しく減じたからではないか……とぼくには思われます。
     だってみなさん、去年一年を考えて、ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような人たちが活躍していた印象って、あります? 青識亜論の影響力が失われたのは事実だし、気の毒なことにツイッターも凍結されたようで、本当に目立たない存在となってしまいました。その意味で「表現の自由クラスタ」そのものは既に2022年に「終わった」と考えてもいいのかもしれません。
     さて、翻って躍進したのがColabo問題で気を吐いた暇空茜です。
     青識亜論と敵対的であることが象徴するように、暇空は明らかに彼らとは一線を画しており、ある意味では反フェミ勢力の中の革命児とも言えた人物でした。
     ただ……これまた、目下、既に少々古びてしまっているようにも思えます。
     これはやはりぼくが幾度か指摘するように、その場その場のトピックスを採り挙げる機敏さに優れてはいても、長期的なヴィジョンがないからではないか……「話題」が飽きられると続かない、「時事系YouTuber」であることが、その本質ではないかと、ぼくには思えます。
     もちろん、まだまだ活躍の機会はあるはずで、そうなったらそうなったで大いに応援すればいいのですが。



    2.Colabo問題――明確なビジョン

     ――では、この問題に対して持つべき「ヴィジョン」というものは、どうしたものか。
     動画でも『WiLL Online』様の記事でも言っているので一言、結論だけ書いておきましょう。
    「困難女性支援法」に見られるように、Colaboがなそうとしていることの本質は女性をシェルターに囲い込み、男性との分断を推進し、一種の「国家内国家」、「国家寄生国家」を作ろうとの試みなのです。後に述べる「頂き女子」によって名の挙がった(つっても、あんまり続報も聞きませんが)「ホスト新法」も必ず、同じ性質を持って立ち現れてくるはずです。




    3.上野千鶴子結婚――破戒僧のボス

     ある意味ではフェミ界全体がひっくり返るような事件でした。
     しかし実際にはフェミ自身がさしたるリアクションも見せないままに、何とはなしに忘れ去られつつある現状には、事件そのものよりも絶望を覚えます。
     これには二つの側面があるように思われます。
     まず第一に、フェミ業界が腐敗に腐敗に腐敗に腐敗に腐敗の限りを尽くし、既にいかなる矛盾もデタラメも不正も全く平然と受け流す業界に成り果てて、既に幾星霜が経っているということ。「フェミニズム」は最低最悪最凶のウルトラカルトですが、同時に「フェミニスト」は一人の例外もなく全てが最低最悪最凶の破戒僧であり、信じる者が馬鹿だ、ということです。
     第二は、時々指摘するようにどうやら近年、フェミが増えているように思われる。が、その多くはさしたる知識もなく、おそらくフェミが家庭や異性愛否定の思想であるという本質も(表現の自由クラスタ同様)知らない人たちである。言うなら、「俗流フェミ」とでも称するべき存在が爆増している。そしてそうした連中は別段、上野師匠に怒りを覚えたりはしなかった。
     何しろ本件における上野師匠の言い訳は専ら『婦人公論』の(他愛ないちょっとした)記事に限られましたが、その記事のタイトルは「15時間の花嫁」というもの。まさに上野師匠の結婚をお安いロマンスとして讃えるもので、徹底にふざけきった、例えばヴィーガンに対して肉をバリバリ食うフードファイターだとして褒め称えるようなものです。
     しかし、この件について批判めいた声は(ぼくの口から以外は)一切聞こえてこない。
     要はフェミの上の連中も「俗流フェミ」を取り入れることに必死で、そんなことは気にしてもいない。
     本件が目立たないことの原因はそんなところだったのではないでしょうか。

    4.ジャニーズ問題――LGBTの政治化

     世間一般的にも、今年最大のトピックスと言ったら、或いはこれかも知れません。
     当たり前ですが、本件にはいくつもの側面があります。
     膨大な幼児虐待が半ば公認で何十年にも及び、繰り返されていたことに対する驚き。
     巨大ビジネスが大スキャンダルでこれからどうなっていくのかという興味。
     女性は何より娯楽(いや、生き甲斐)としてのジャニタレの供給が断たれることに恐怖した人も多いでしょう。
     さて、ぼくにとっての本件はまた特殊な色あいがあるのですが――それはちょっと措いて、「アンチフェミ」全体から考えればこれはある意味で、「男性差別」そのものとして認識されていたはずです。「本来であれば男性も、ことに子供など性被害に遭っている。しかしそれは今まで不可視化されてきたのだ、云々」。
     しかしまあ、少なくとも本件でジャニー側を擁護する声は橘玲辺りを除けばほぼゼロで(デヴィ夫人も比較的すぐ、発言を撤回しました)、時代の移り変わりを感じた人も多かったのではないでしょうか。
     ただ、アンチフェミはジャニーを守ろうとして暴走するジャニオタなどに怒りを表明していたようで、これは近年のアンチフェミ界隈で主流の論調になっている「女はあまりにも近代的人権観に乗り遅れている(自己中すぎて、呆れ果てる)」といったものに接続していくものではありました。
     しかしぼくとしてはもう一つ、やはり「少年愛者」という存在が、ことに文化左翼(という言い方でいいのでしょうか。ぼくが普段は「サブカル」と呼んでいるような文化芸術関連に深くコミットしている左派)たちに守られ続けて来たことに、関心が向きます。
     彼らは稲垣足穂などをありがたがり、ただひたすらに(ホモの近似概念としての)少年愛者の靴を舐めしゃぶりたがる傾向にあります。いざ、こういう事件が表沙汰になればそれそのものは否定しますが、ぼくがかねてより主張している、『薔薇族』の伊藤文学が児童レイプの教唆を続けて来たこと、フェミや左派がそれを絶対に守り抜いてきたことについては誰も聞く耳を持たないという状況が続いている。その意味で、本件は本来、「LGBT問題」、「男性問題」として捉えられるべきものであった。が、そうする人はほとんどいなかった。
     これは言うならば「トランス」が「性的目的で女湯に入りたがるオカマ」を何とか「最初から犯罪目的の変質者」として尻尾切りする、「政治的判断」をする傾向があるのと、全く同じであるように思えます。
     だって伊藤文学の件で、伊藤を擁護し、こちらを恫喝してきたフェミも、本件においてはもっともらしくジャニーズを腐していたのですから。
    「バレたら悪、叩いてよい者は悪」。
     それがフェミです。


    5.女子スペース問題――コップの中の大嵐

     本年四月、東急歌舞伎町タワーにジェンダーレストイレが設置されたことが話題となりました。もっとも、これそのもは悪評のため四ヶ月で普通のトイレに戻されるというショボいオチを迎えたのですが、ともあれこの頃より都や埼玉県などから急速に女子トイレが消えていった(つまり男子トイレとジェンダーレストイレ二択という状況になった)そうです。
     これについては毎度言っているように、ポイントは二つなので、簡便に記しておきましょう。
     まず、これら状況についてアンチフェミの中からは「女ざまあ」といった声も聞かれるし、中にはどうも、ホンキでトランス側についている人間もいるようですが、それは愚かとしか言いようがない。
     というのも本件はただ単に、「フェミという毒が男ばかりではなく女にも効くのだとわかった」ということ以上の、何物でもないからです。LGBT運動は明らかにフェミニズムのロジックの上に依って立っているのだし、仮に今、苦しんでいる個人がフェミニストであろうと、その毒は明らかに男をも犯すわけです。
     というか、ぼくとしてはフェミニズムという思想が史上最悪レベルで反社会的なものである、とどんなバカにも理解が及ぶ形で示されてるのに、それに拍手喝采するアンチフェミがいることが、全く理解ができません。
     第二に……というか、これも結局は上と同じなのですが、「TERF」についてです。「トランスが女子スペースに入るのは困る」というその「主訴」そのものは同意できても、フェミニストがそれを言う資格はない。それどころか、既に彼女らはわけのわからん詭弁(いや、詭弁でも何でもない「フェミニズム的願望」)によってこれらを全てシスへテロ男性の責に仕立て上げるということをしつつあります。
     結局、全てはフェミニズムという「全てを男の責に帰すカルト」の引き起こしたことであり、この問題への対処を誤っている人たちはそのフェミニズムへの見識が不足している(トランスジェンダリズムが彼女らの手先でしかないといった根本すら飲み込めずにいる)ということなのです。

    6.『バービー』――究極の女性ジェンダー称揚

     ぶっちゃけると同映画、日本では受けなかったようです。
     それも道理で、こんな「萌え」に欠けるお人形が、日本人に受けるはずもないのです。
     いえ、「萌え」系は女どもの憎悪の対象だ、と思われるかもしれませんが、そんなことはない。『セーラームーン』だって『プリキュア』だって「萌え」なんですから。いかにもアメリカの美人のねーちゃんのステロタイプとして作られた「バービー」は日本人好みの可愛さを持っておらず、おそらく日本女性で「懐かしい、子供の頃よく遊んだ」という人はかなり少数派なのではないでしょうか。
     ただ、逆に言うとそうした「意識高い」コンテンツが、(日本でも)ここまで話題になったこと自体がすごいというか、近年のフェミニズムブームの象徴であるように思うのです。
     まさに映画自体が現していたように、「バービー」の本質は幼女に「女性性の快楽(=色っぽいおねーちゃんになることの喜び)」を教えるところにありました。ところがそれこそが現代においては女性を抑圧していると叩かれる。
     本作はそうした(100%女側の身勝手な欲望の自家中毒で生じた)葛藤を何とはなしに男のせいにして、女が(単に居直っただけのことを)勇気ある選択でもしたかのように称揚することこそがテーマでした。
     まさにフェミニズムのために生じたゴミを「ケンダム(男の世界)」へと不法投棄し、しかる後、悪者でもやっつけたかのように格好よく決めポーズを取る。本作はそんな、ステキな映画だったのです。
     言うならば上野師匠が結婚していることがバレたので、「フェミの新入り」たちに大慌てで「これもアリ」と言い訳するために作られた。それが本作の目的だったのです。

    7.頂き女子――女の助けてもらう持ちネタが、また一つ

     さて、「頂き女子」と言えばパパ活において虚偽のエピソードで男性の同情を引き、大金を「頂」く存在。ことに「頂き女子リリ子」と呼ばれる女性が大金を稼ぐ一方、「頂き女子マニュアル」を売っていたことが詐欺幇助とされました。
     ちなみに同マニュアルを使い、男性二人から現金1000万円以上を欺し取った罪に問われた女子大生は、結局執行猶予で済んでいます。
     本件についても、動画でちらと擦りましたが、そこまで深く取り扱ってはいません。
     ただ、ポイントを抑えておくならば、一つには本件において、案の定というかメディア側がその生育史に興味津々で、「同情的」であったこと。裏腹に騙された側の男性はどうしてもその「下心」が透けて見え、「同情的」に見られない存在であること。
     もう一つはパパ活女子そのものに「ホスト」というわかりやすい「悪者」が仮想され、「本当に悪いのはあいつらだ」と一般ピープルのみなさんの心の落としどころが明確で、その意味で「安心して楽しめる娯楽」であったことが重要でした。

    8.草津市議問題――オンナノコなので、仕方ない

     これについては、ぼく自身、大昔にちょっと擦って、それきりでした。
     本件はそもそも、問題であった新井祥子師匠の主張が最初からあまりにも疑わしいものでした。案の定、嘘がバレたわけですが、フェミたちは大はしゃぎで現地まで飛び、草津そのものを「セカンドレイプの町」だ何だと嬉しげに誹謗中傷――とこの辺りのことは、みなさんの方がよくご存じでしょう。
     実のところ本件は(Colaboと深いつながりを持つ)「一般社団法人Spring」が一応の謝罪を行っており、まあ、フェミが謝っただけでもおそらく人類史上初のできごとで、それだけでもエラい、とも思えます。
     ただ、もちろん本件に乗っかったフェミのほとんどが謝罪もなく居直ったままであり、中には「本件さえ持ち出せば、アンチフェミはフェミの口を塞げるようになった、実質レイプ容認ワードだ(大意)」といった発言も見られました。
     甘ったれの極みですが、彼女らの中で本件について、心から申し訳ないと思っている者など、一人としていないでしょう。
     動画などでも指摘したように女性は男性の性犯罪、性加害に殊の外舌鋒を極めて怒りを露わにしますが、その本質は――と意味ありげなことを書いた上で、結論は次の項目で出すことにしましょう。

    9.松本人志炎上――レイプを「頂」く人たち

     ――えぇと、ぼくはこの松本人志という人物についてよく知らんのです。
     だから騒動についても大して知らんのですが、要するに上の問題に非常に近い、女性側からの「エラい人に性加害を受けますた」という訴えがあり、またそのエラい人は容疑を否認しているという状況。
     後出しジャンケンめきますが、本年に入って女性側の「事後も松本氏に好意を持っていると思しき書き込み」も発見されるなどして、「SNS時代のフェミの困難さ()」を象徴する事件となってしまいました。
     しかし先の草津事件でも事情は同じでした。性加害があったとされる後に、新井師匠は加害者とされる人物に対する好意的な感情を、電子書籍で吐露していたのです。
     そしてみなさんも、もうおわかりなのではないでしょうか。
     フェミにとって、そうした事実は何一つ、内省するべき契機とはなりません。
    「その時どうであろうと、後々嫌だと思ったらそれはレイプなのだ」。
     これは今までずっと、フェミが真顔で繰り返してきた主張です。
     よほどのことがない限り、性的関係において女性がイニシアチブをとることは稀少であり、基本は男がリードする。そしてその時はいかに同意があったとしても、女性が明快な意志を示すことは少ない。そして、女性の主観では常に「オトコの訴えを受け容れてやったのだ」と認識される。その後、相手に対する感情の変化があった場合、過去のできごとは今の感情の脚色を経て思い出され、「実はあの時も本当は嫌だったのだ」と後づけがなされる……それがフェミニズムであり、そしてまたある種の女性の「本音」をすくい取っているとしか言いようがないのです。
     それは「何がどうあろうとも、自分で自分の責を取りたくない」というもの。そしてこれは、女性のセクシュアリティ(相手に求められることで自身を価値づけることができる)に深く根ざしているということは、やはり『WiLL Online』様で書かせていただきました。

     男女共々、まずは女性のそうした心理を押さえておくことが、何よりも肝要なのです。

    10.『あの子もトランスジェンダーになった』発売中止――さらにアップデートしたフェミニズムへ

     ――さて、やっと最後のトピックにまで漕ぎ着けて、こちらもほっとしております。
     時期的にもトピックスの重大さ的にもまあ、これがトリを取るということでみなさん、ご不満はないのではないでしょうか。
     本件について、実のところ「内容はともかく、それを読ませもせずに焚書するとはけしからぬ」というレベルの一般論(否、もちろんこれは100%の正論なのですが)に終始するのではないか、と予測していたので、意外に突っ込んだ議論がなされたことはよかったかと思います(まあ、テレビメディアなどでは相変わらず、全く報道されていないでしょうが……)。
     本年、(『バービー』や)上野師匠の結婚が象徴するように緩い、甘ったれたフェミニズムが蔓延するその裏では、先鋭化した、悪魔すらも震え上がるおぞましいフェミニズムが侵攻していたのです。
     そして先の女子スペースもそうですが、「ジェンダーは虚構だ」、「ジェンダーはセックスに先行する」と言い続けてきたフェミニズムを是とするなら、これらは全くもって正しいのだとするしかない。
     さらに言うならば草津問題、松本人志問題を鑑みれば、本件が本格的に騒がれ始めた時、首謀者(というのは例えば、トランスのインフルエンサーなどになりましょうが)が責を取るかとなると、もうそれは最初からわかりきっている。
     言うならば2023年の一年は「いよいよフェミニズムの成果としての社会破壊が明らかになった」のと同時に、「さらにおぞましい、次世代のフェミニズムが用意されつつあった」一年であったのです。
     ――本件については近く、『WiLL Online』様でも書かせていただく予定です。
     そちらの方もどうぞ、よろしくお願いします!






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