新年、明けましておめでとうございます。
 いよいよ2012年の始まりです。
 これよりの一週間がみな様にとってよい年でありますように、お祈り申し上げます。
 ――わかりにくいので書いておきますが、以上は歌丸師匠が毎年やる新年恒例のボケのパロディであります。ちなみに去年も同じギャグをやっているのですが、ブログも移転したことですし、いけしゃあしゃあと使い回すことにした次第です。

 さて、というわけで恒例の「今年の女災10大ニュース」を発表しようかと思います。
 といっても新聞などで騒がれた大きな事件などは一切、扱われません。
 あくまでぼくの視点から、ぼくの感覚に基づいて選んだニュースなので、トピックスとしては抽象的なものばかりになりますが、そこはご容赦ください。
 それでは早速、10位から発表して参りましょう。

【第10位】『女災社会』絶版
 はい、記念すべき最初のニュースはこれです。
 拙著『ぼくたちの女災社会』は著者も与り知らぬまま、そのほとんどが裁断されておりました。
 ただ、出版して三年足らずでの絶版はかなり例外的だろうと意気消沈していたのですが、出版不況の昨今、意外にあることみたいです。まあ、だからといってそれが慰めになるわけではないのですが。
 ところが本書、どういうわけか尼で見ると絶版になってから妙にプレミアがついているんですよね。レビューも増えたりしましたし。もうちょっと、出た時に騒がれたかったものです。

【第9位】ブログ開設
 これも私ごとですね。
 ただ、困った方もいらっしゃいますが、ブログのコメントが増えたことは嬉しい限りです。

【第8位】斎藤美奈子師匠の粗雑な著書、教科書に
 これについては、既に旧ブログ、またtogetterでかなりしつこく書きました。
 ここで見えてきたのはフェミニストたちの挙動のいい加減さ。
 例えば斎藤師匠は本書において基本的にアニメを、男児向けのものも女児向けのもの(そう、例えば『セーラームーン』)もケシカランものとして否定しています。が、本書について大絶賛のレビューを書いた藤本由香里師匠は、言うまでもなくオタク系フェミニストで『セーラームーン』についても大絶賛。
 むろん、「浮き世の義理で仕方なく内輪誉めしている」という側面もありましょうが、彼女らのデタラメぶりを見ていると、「何も考えず、何となしに手グセで文章を書いている」だけにも思えてきます。

【第7位】『ダメおやじ』ブーム
 本年度の『ダメおやじ』ブームにはすごいものがありました(ただしマイブーム)。
 何しろランプの魔神に聞いたらダメおやじやそのヒロイン、ゆき子のことを当ててくるくらいですから。
 本作についても今年の初めに旧ブログで書きました。高度経済成長期に描かれた「父性の喪失」の物語が、ゼロ年代になっていよいよ実感をもって胸に迫ってくるようになった、「弱者男性」が容赦なく叩かれ続ける現実をまるで予言していたかのような作品である、というようなことをお話ししたかと思います。
 昭和時代のダメおやじが叩かれたのも、ゼロ年代の「弱者男性」が叩かれているのも、それはぼくたちが「弱者だから」でも「強者だから」でもありません。
「強者でなくてはならないのに弱者だから」なのです。

【第6位】ド○ター差別ブーム
 本年度のドク○ー差別ブームにはすごいものがありました(ただしマイブーム)。
 彼についても、既に旧ブログで書きました(こればっか)。
 要するに女性専用車両に乗り込み、大暴れしてフェミニストに男叩きの口実を与えている御仁ですね。
 が、大変に不勉強な話ですが、記事を書いた時点でぼくは、彼らがyoutube、ニコ動にアップしている動画を見てはいなかったのです。
 動画を見て、何といいますか『キックオフ』の衆人環視での音読を強制されたかのようないたたまれなさに身悶えしてしまいました。
 彼らの「痛さ」の本質は、一体どこにあるのでしょう?
 かつての市民運動の方法論がいまだもって通じるのだ、と信じている点。
 かつてのウーマンリブのロジックを男性が唱えても通じるのだ、と信じている点。
 その意味で彼らって70年代的学生運動の痛さと90年代的クィアムーブメント()の痛さがハーフ&ハーフでお楽しみいただける存在なんですよね。
 事実、彼らや在特会の方法論って、左派の運動家の流れのようですし、彼らのスタンスは(そもそもあまりモノを考えるタイプの方々ではないのですが、敢えて言えば、素朴な意味での)ジェンダーフリー論者的な位置に立っているようです。
 彼らのおかげで恐らく、男性の解放は四十年ほどの遅れを強いられることになりましょうが、まあ他人様のなさることですので、やめろとも言えません。困ったことです。

【第5位】リベラルとフェミニストの分裂
 Twitter界隈では、リベラルを自称する人々とフェミニストたちとの内輪揉めが、殊に今年辺りから目立ってきたように思います。
 例えばですが、『週刊金曜日』では『ひとはみな、ハダカになる。』という本の回収・絶版を求める運動が起こったことが報じられました。
 これはバクシーシ山下という悪名高いAV監督の著作で、既に絶版になっていたのですが、今年再販の話が持ち上がり、それで以前にも騒がれていた問題が蒸し返された――というのが経緯ではないかと思います。
 ぼくもネタになるかと思い、読みました。古書を尼で取り寄せて。
 すっげーツマンネ。
 内容はどうということもないAV監督の忙し日記。
 そもそもぼくはものすごく本を読むスピードが遅く、文庫一冊に一ヶ月くらい平気でかけたりするのですが、本書に関してはあまりの内容の薄っぺらさに一時間半ほどで読破してしまいました。
 毒にも薬にもならないような本ではありますが、問題はこれが「よりみちパン!セ」という中高生を対象にしたシリーズとして出版されたことです。
 内容的にすごいエロがあるというわけでもないのですが、こんなモノを中高生向けとして出すというのは論外ですし、文句をつけてくるヤツがいるのは当然です。
 が、その文句をつけたのがアンチポルノ派のフェミニズム団体であり、それを「表現の自由」の侵害であるとしてリベラルと小競りあいが起こったわけです。実際、復刊された気配もないのでフェミニストが勝ったのでしょうか?
 いずれにせよ、「リベラル」というのは要するに「俺の自由を守る人」以上のものではないのですからリベラル同士の利害など、常にバッティングしあうわけです。これからいよいよそうした内戦は拡大し、周囲に被害を及ぼすようになるのではないでしょうか。

【第4位】ダイアモンド博士が親ジェンフリ派というウソがバレる
【第3位】フェミニストがマネーを参照していないというウソがバレる
 はい、4位と3位は同時にご紹介しましょう。
 もうこの一、二ヶ月この話題ばかりで皆さん、飽きていらっしゃるかと思います。
 詳しくご存じない方は、今までの記事をご覧になって下さい。
 が、小山エミ師匠と議論を重ねた『世界日報』の山本彰氏から面白い記事をご教示いただいたので、ここでは補足説明的にそれをご紹介することにしましょう。
 日本性教育協会というところの発行している『現代性教育月報』という月報があるのですが、これの2006年1月号にダイアモンド博士が寄稿をしているのです。
 ダイアモンド博士は

 この報告(引用者註・マネーの双子の症例)により、人は性心理的にジェンダー・レスの状態で生まれ、ジェンダーに特徴的だと思われるものはもっぱら養育によるものだというフェミニストの主張が生まれたのです。そしてフェミニストは、女性として扱われた男性が女性としてうまく適応できたのであれば、教育・就労・家庭内の関係性をはじめとする、あらゆる事柄について男女が平等に扱われるよう、子どもの教育のしかたを変え、女性に与えられている機会を改善していくべきだと主張しています。

 と、明らかにフェミニストが「双子の症例」を根拠にジェンダーレスを推進しようとしたのだとの見方をしています。
 もっともこの後、博士は

 しかし、だからといって、私が日本の伝統主義者の主張こそが正しく、フェミニストの主張はまったく間違っていると考えているかといえば、そうではありません。

 と続け、男/女性ジェンダーを身につけたい女/男性や同性愛者を尊重すべきだ、との考え方を示しています。全体的には、博士の主張は中立というか、一般論を述べるに留めている、という印象です。勘繰ることが許されるなら、日本の詳しい状況もわからないことだしという思惑も、イデオロギー闘争に巻き込まれても面倒だしというホンネも透けて見えそうです。
 それを、編集部が前書きを挿入することで何とか自分たち寄りの記事としての体裁を取り繕った、という印象です(事実、ダイアモンド博士の文章の前には博士が男女共同参画の理念に賛同しているのだ、と強弁する『朝日新聞』の記事の転載が挿入されるという、かなり作為的な記事構成になっています)。
 いずれにせよフェミニストたちの不誠実さを物語る上で、極めて重要な資料と言えましょう。

【第2位】ラディフェミ/リベフェミ論のウソがバレる
 これについてはずっと書かねばと思いつつ、書けずにおりました。
 一時期ネット上では「リベラルフェミニストはオタクの味方である、ラディカルフェミニストこそ悪者なのだ」との論調が盛んでした。しかしこれは進歩派系の文化人が何とかしてフェミニズムを延命させようと企てて垂れ流した、一種の作為的な情報操作のように思われます(ぼくがそのウソを指摘したから……というわけではないのでしょうが、最近はあまり言われなくなりました)。
 ネットで見る限り、ラディフェミというのは「ポルノなどに文句をつけるうるさいやつら」という意味であり、それに対してリベフェミは「表現の自由を重んじる人たち」という文脈で使われています。 つまり、児ポ法などと絡んで「ラディフェミは敵、しかしリベフェミは味方」といった区分けがなされていたわけですね。
 が、『フェミニズム事典』などで両者を調べてみると、それはどうも当たっていないのです。
「ラディカル・フェミニズム」というのは男性性、女性性といったジェンダーそのものを性差別の原因である、と見なすフェミニズムだということです。つまり法的手段で均等法のような法律を作っただけでは不足で、ジェンダーフリーによってしか性差別を解消し得ない、というのが彼女らの考えです。
 もちろん、ドウォーキンやマッキノンがラディフェミの論客であるというのも事実である以上、「ポルノを否定するのがラディフェミ」という言い方も完全な間違いとは言い切れないのですが、上の定義を見る限り、『バックラッシュ!』などでさんざん顔を出した上野千鶴子師匠など、今の日本で主流となっているフェミニストたちは間違いなくラディフェミです。
 一方、「リベラル・フェミニズム」というのは単に古典的な自由主義に影響を受けて出て来たフェミニズムという、(ちょっと乱暴ですが敢えて言えば)「古いフェミニズム」というような意味あいしかないようです。
 ネット上で「ラディフェミは敵、しかしリベフェミは味方」などと言っている人たちの何割かは明らかに左派で、上野師匠などと親和的です。が、明らかに彼らのラディフェミ、リベフェミの用法は間違っている。大体、「リベフェミ」の「リベ」は「表現の自由」とは直接関係がないのですから。
 これが「何かの間違いがいつの間にか広まった」のか、「意図的にウソを流している」のか断言はできません。しかしウィキペディアを見れば藤本由香里師匠が「リベフェミ」とされており、かなり意図的なものを感じざるを得ません(彼女も言うまでもなく、ラディフェミでしょう)。
 想像ですが、彼らは何とか自分たちの身内を延命させるために「ラディ/リベフェミ」の言葉を敢えて誤用して「過激な、悪しきフェミニスト/話のわかる、よいフェミニスト」というイメージを広めようと、はっきり言えばオタクを「騙す」ために、風説を流したのではないでしょうか。

【第1位】『まど☆マギ』、女の時代にトドメを刺す
 やはり1位はこれじゃないでしょうか。
 いや、アニメ自体は去年にオンエアしたものなのですが、まあ、今年は劇場版が公開されたということで。
(以下、ネタバレを含みますので、未見の方は読まれませんよう)
 本作については、魔女っ子板『エヴァ』との評があちこちでなされていると思います。
 が、重要なのは本作が「女の子の、ビルディングスロマン」を否定した点にあります。
『エヴァ』はフェミニストのせいで男性性を否定された主人公が、かつてのヒーローの

「特訓」→「新必殺技を会得」→「敵に勝つ」

 というコースを奪われ、

「特訓」→「何か、挫折」→「敵から逃亡」

 という新パターンを生み出したアニメでした。
 いや、こうしたビルディングスロマンが否定されたのは不況とかいろいろあるわけで、全部がフェミのせいではないと思いますが。
『まど☆マギ』もまた「戦って敵を倒す」という明らかに『セラムン』以降の「戦闘美少女」の系譜に属した作品でした。
 が、従来こうした戦闘美少女物で描かれた

「愛を得る」→「愛故に新アイテム獲得」→「敵を倒す」

 というコースが『まど☆マギ』では否定され、

「愛を得られない」→「何か、挫折」→「悪者化」

 という新パターンが生み出されたのです。
 言ってみれば、『まど☆マギ』は「男の子が守れなかった正義を、女の子が守れるわけねーじゃん」と身も蓋もないことを言ったのです。事実、主人公であるまどかの母親は「夫に主夫業をやってもらい、自分は会社で働くバリキャリ」と設定され、まどかの担任の先生は「授業中いつも自分を振った男性の悪口を言う」というキャラクターです。
「魔法少女はいずれ魔女になる」という作品上の設定と併せて考えると、これはかなり意味深です。
 ただ、本作が作品として優れているのは、まどかが宇宙の因果をも変えて悲劇を食い止める、という形でハッピーエンドに持っていったことです。言わばまどかちゃんは女神様のような存在になり、今まで犠牲を強いられてきた魔法少女を救ったのですね。
 ここには作り手の母性信仰的な心性が明確に見て取れます(監督の新房氏は『さよなら絶望先生』をアニメ化した時も、オープニング映像において聖母の如き可符香の中で胎児のように眠る絶望先生、というイメージを描いています)。
 それに沿って先ほどの言葉を訂正するならば、「男の子が戦いによって守れなかった正義は、女の子が母性によって守れるかも知れない」という解答を出したのが『まど☆マギ』と言えます。
 そうした母性信仰的心理に対しては、気にくわない面もあるのですが、ひとまずここでは置きましょう。
 重要なのはまどかちゃんが聖母の如き母性愛で、全地球の因果を変えたという点です。ここではジャンヌ・ダルクや卑弥呼が「利用され、犠牲となっていった魔法少女」として描かれますが、果たして、「歴史上、犠牲となった魔法少女」は彼女らだけだったのでしょうか。
 ひょっとするとまどかちゃんのお母さん、担任の早乙女先生も犠牲となった魔法少女だったのでは?
 となれば女性性を否定し、女性がひたすら男性性を身につけることをよしとしてきた魔女の正体は、一体何だったのでしょうか……?
 そして最終回(つまり、まどかちゃんが女神様と化して以降の世界)でもほむらたち魔法少女は戦いを続けていました。それは、女性が女性性を取り戻したからといって、世の中に悲劇の種は尽きないことを示しています。
 では、その「悲劇の種」とは一体?
 来年に公開されるという新劇場版では、その辺りの謎が、解明されることになるのではないでしょうか……?