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 当ブログ、今年の初めはずっと『ズッコケ』のレビューが続いておりました。みなさん、うんざりなさっていたかと思います。
 さて、そんなみなさんに嬉しいお知らせ。
 今回ご紹介する『ズッコケ熟年三人組』で本シリーズ、めでたく完結です。
 著者はこれ以降も続けることを仄めかしていた時期もあり、ぼくも以前、『熟年』がシリーズ化するようなことを書いてしまいましたが、あとがきなどを見るにどうやらこれで完全にファイナルのようです。
 以前も書いたようにこの『中年』シリーズは連続ものとしての性質が強く、一冊ごとのレビューはしにくいのですが……まあ、軽くやっておきましょう。
 タイトルが味気ないので、冒頭で各巻に『ズッコケ』風のタイトル案を着けています。
 またオチなども平気でネタバレしますので、その辺はご了承ください。

『ズッコケ中年三人組age46』
●タイトル案『ズッコケ浮気調査団』

 今回は「宅和先生危篤」との煽りで、発売前から騒がれた話でした。
 宅和先生は三人組の六年生の時の担任。実際にはそこまで出番の多いキャラクターではないのですが、やはり三人組の恩師として、存在感を放っていたキャラでした。
 その先生が意識不明という報が入って……そのまま意識を回復させることなくあっさり死んでしまいます。
生徒会長』で悪役としての存在感を見せつけた津久田も自殺しているとの説明がなされ、またモーちゃんの母親の認知症の話題も絡め、今回のテーマは「死」や「老い」のようです。
 それにしても、重要キャラを富野アニメのごとく死なせて無常観を演出する那須節。もうちょっと楽しい話を書いても罰は当たらんと思うのですが……しかし驚くべきは、むしろ本作のメインはそこにはなく、宅和先生の若い頃の不倫疑惑にある点です。
 葬儀後、尋ねてくる老婦人。彼女は宅和先生の教師仲間だったが、元恋人でもあるという。若い日に既に妻子ある宅和先生に処女を捧げ、その後、別人と結婚。しかし更に数年後、一度だけ再会し、関係を持ったこともあるというのです。彼女の目的は、宅和先生の骨を分けてもらうことだというが……。

 弱り切った宅和先生の娘さんに頼まれ、三人組は婦人の裏を調べ、会いに行こうとするのですが、そこで婦人の息子が意外なことを告げます。実は彼女は大学時代の恋人にもコンタクトを取り、「あなたとの性関係を自分史に書きたい」と申し出ているというのです。
 ここで読んでいる側はモーちゃんの母親の認知症のエピソードを想起し、「ははーん」となります。『結婚相談所』をご記憶でしょうか。モーちゃんの母親はDV疑惑、DV冤罪疑惑のある人物です。
 更に、婦人の日記には様々な男性との性遍歴が出て来るのだから、もうお察しです*。彼女が「宅和先生からの結婚祝いにもらった」と称する童話集があるのですが、奥付を見ると出版年は彼女の息子の誕生した年。別にデキ婚じゃなかったのですから、それでは時間軸があわないわけです。
 案の定、彼女は認知症を患っていました。
 もう、盛りだくさんでおなか一杯です。
 ただ、「騒動の最中、たまたま婦人が怪我をしてしまい、外を出歩けなくなったのでもう騒ぎを起こすことはなくなった」ってクロージングはちょっとご都合主義過ぎるとは思いますが。 

『ズッコケ中年三人組age47』
●タイトル案『花のズッコケ大選挙』

 ハチベエ市議選に出るの巻。
 反市長派がどうの、陽子を駆り出して婦人部を作り、女性に媚びを売って女性票を取りつけるのと、そんな話ばかりがなされます。
 いえ、『ズッコケ』シリーズでの名作『花のズッコケ生徒会長』でも考えれば同じようなことをやっており、要は政治ってそういうものなのでしょうが、政策で勝負しろよ、おまいら、とも言いたくなります。

 例えば、ミステリ系って人気があるけど、ぼくにはそれが何とも不思議です。
 日本人は情緒の国民でロジカルなモノは好まないと、ぼくには思えるからです。
 前に『スーパーダンガンロンパ2』で罪木が泣き出すことで、裁判の流れが変わるというシーンを採り挙げたことがあります。情緒に引っ張られて論理を蔑ろにする様はリアルですが、恐らくこれはミステリでは例外的な展開かと思われます。
 例えばですが、「野球漫画」が「この世でもっとも価値があるのは野球だ」との価値観に貫かれたパラレルワールドでの物語であるように、ミステリというのは「人間誰しもが論理的に行動する」という架空のパラレルワールドを舞台にしたヒロイックファンタジーであるわけです。上の『ダンガンロンパ』の展開は言わば『ウルトラマン』で「怪獣を訴訟を起こしてやっつける」展開でも始めちゃったような、禁じ手なわけですね。
 で、翻って思うのは政治って、それの真逆で「情緒を操作する」ゲームだよなあと。
 そう考えると日本で政治モノが必ずしも受けず(アメリカ映画にあるような演説で終わる話って、日本じゃあんまりありませんよね)、ミステリが人気なのも不思議な気がします。

『ズッコケ中年三人組age48』
●タイトル案『ズッコケ痴漢大疑獄』

 ハチベエが痴漢冤罪に巻き込まれるという、まさに「女災小説」なのですが……。
 が、相手の女子高生は急に主張を翻して「自分の勘違い」と認める。
 しかしそれは対立議員の罠であった。新聞記者を待機させ、「新聞ダネになるところだったがゲラ段階で差し押さえたよ」と恩を売り……。
 お話としては三人組が久々にタッグを組み、僅かな情報から女子高生に接して敵対議員の子分であるチンピラを尾行して……とまさに小学生時代のようなわくわく感のあるモノに。しかし痴漢冤罪というのはいかにも政争の小道具として使われた感が強く、女子高生たちもすぐに反省するので、「女災小説」としてはそこまでの深みはありません。
 そもそもハチベエの息子がやたらと高校生仲間に顔が利き、何でも解決してしまうので、話としてはあんまり緊張感はありませんでしたし。

『ズッコケ中年三人組age49』
●タイトル案『ズッコケ王朝調査隊』

 今度はロマノフ王朝の子孫と称する人物が登場してきます。
 となると『財宝調査隊』を彷彿とさせる謎解き劇が期待されますが、キホン、この辺りの数作はハチベエ市議の駅ビル構想が柱となっており、融資がどうのこうのといった話が中心。『心霊学入門』の恒川浩介も再登場しますが、まあ、可愛いショタっ子も時が経てばオッサンになるという無常さ以上は感じさせません。

『ズッコケ熟年三人組』
●タイトル案『脅威のズッコケ大水害』

 最終作ですが、先にも書いた通り、駅ビルの件が話の中心。
 ハチベエのオヤジが駅前ビルができるのを機に、八百屋を復活させないかと提言。しかしハチベエはそんなに商売に情熱を注いでる風もなく(『大震災』でちょっとそんな感じがあったくらい)、お話の柱足り得ないのでは……と思っていると水害のエピソードでムードが一変。ハカセの教え子、モーちゃんの同僚の奥さんが亡くなるなどの無常観を見せつけます。
 八百屋の話はハチベエの中で葛藤の描かれないまま、ラストで唐突に再開の決意がちらっと語られるのみ。やはり、ハカセが専ら「内面」を引き受けていた本シリーズの弊害が、ここへ来て顔を出したように思います。
 オチはクラス会で「俺たちも熟年か」といった会話をさせつつ、「ズッコケ熟年三人組」とのフレーズが出るかと期待させつつ、そこを外して、言わせないまま。
 そしてハカセが歌を歌おうとする、歌に入る直前でさっと終わります。
 この外しっぷり、アンチクライマックスぶりはなかなか那須センセらしいと思います。
 何しろ四十年近く続いたシリーズのラストが「ハカセはちゃんと歌を歌えるかなあ」なのだから、「何じゃそりゃ」とも、「でも取り敢えずの心配事はいつだって、そういうレベルのことだよなあ」とも思えます。

 ――さて、以上で『ズッコケ』の五〇冊に加え、『中年』一〇冊を加えた六〇冊フルコンプです。少年時代のシリーズは五〇冊を確か三ヶ月足らずで読破したのを中年は半年以上かけたのだから(『熟年』が出たのは今月三日ですが、前作を読み終えたのはそのちょっと前でした)やはり中年は今一……という感じではありました。
 そもそも、ぼくが本作を『中年』シリーズまで追いかけようと思い至ったのは某ブログで

那須正幹には自身の女性蔑視・女性嫌悪を露骨に作中に表してしまうという悪い癖があります。

中年シリーズで著者のミソジニーを主に受けていたのは、いうまでもなく荒井陽子です。前巻(引用者註『age46』)での「拾ってくれてありがとう」というセリフや、今回(引用者註『age47』)の子供を産ませてほしいと土下座までしてしまう姿勢、ハカセに対する陽子の卑屈な態度をみると、著者がこの結婚を陽子に対する懲罰として設定していることがわかります。自立した女性として生きていた彼女は、その懲罰としてハカセごときと結婚されられてしまったのです。


 などと書かれていたからです。
 なるほど、那須センセの女性に対する視線は極めて辛辣です。
 同ブログは

ここからわかるのは、著者がバブル世代の女性にこの程度の貧困なイメージしか持っていないということです。


 と続けていますが、那須センセの辛辣さはむしろ、若い頃の離婚体験に根差していると思われ、貧困なイメージで相手を憎悪、蔑視しているのはむしろこのブロガーでしょう。
 そもそも『ズッコケ』はそのタイトルに反してシビアで極めてシニカルな作風であり、『中年』シリーズはいよいよその特徴が顕著になっており、別段女性に対してだけ辛辣なわけではありません。
 むしろ、女性が子供を作りたがる心性を否定するこのブロガーの方が、ぼくにはミソジニストとやらに思えるのですが。
 ともあれ、この件でぼくが感じたのは、「女性への批判めいた表現は、もはやフィクションですら許されなくなりつつある」ということです。
 例えば、『ドラえもん』でジャイ子との結婚が「のび太への懲罰」とされていることにフェミニストは怒り狂いました。が、それは『ドラえもん』が従来の児童漫画の中では「少し、お兄さん向き」のものだったからに過ぎないのです(事実、有名なこの一話は『小学四年生』に掲載されたもので、低学年向けには違った一話が描かれていました)。『ズッコケ』も同様で小学六年生という「お兄さん」が主役のシリーズ。だからこそ少年時代のシリーズでは女子キャラの「他者性」が透徹されていたのです。那須センセも自作についてインタビューで「男の子に読んで欲しい」旨を語っていました。
 しかしそうした「自然な、異性への視点」すらも許されない、とする気風がだんだんと強まりつつあります。最終作あとがきで、リベラルのセンセは「これからの日本の平和と民主主義に暗雲が立ちこめつつある」ことを危惧していますが、ぼくにはまた別方向から黒雲が湧いてきているんじゃないかとの気がして、ならないのです。