芸術家は厳しい職業だと思います。「独自性」が求められ、そして社会に受容する用意がないと生きて行けない。
舟越 桂は彫刻家1951年生まれ、 彫刻家・舟越保武の次男。
彼の『彫刻家 舟越 桂の創作メモ 個人はみな絶滅危惧種と言う存在』からの抜粋。
・アトリエは迷いの場であり、迷うから道を探す、
・芸術は進歩なんかしなくていい。範囲が広がっていくだけだ。
・「なぐさめ」だけでは芸術でなく、人間にとって新しい地平を示す物でなければならない、
・もっともっと考えてみるべきだ、
・日本のアーチストは「どうあるべき」で動きすぎないか。
日本のアーチストは「どうしたい」で動いているか。
・混沌としていることを鮮明に表す。
・みすぼらしく、うすぎたない仕事場からも、美しいものが生まれるように、よごれた人間からもすばらしい芸術がうまれるかもしれない。それは難解な救い。そして人間位厚みを加えていると思う
コメント
コメントを書く宗教と言ったって、人間どのように生きたらよいかを問い、答える道である。宗教教団になれば、個々の自由的発想より,先師の教えとか、集団の統制管理が重視される。宗教の継続という点では不可欠である。ただ、組織が重視されると、個の自由闊達な発想は制限され、宗教の進歩というより深化は望めなくなってしまう。
国家でも同じでしょう。体制の維持管理に重点が置かれれば、個の自由闊達な発言は選別され、体制の維持管理に問題がなければ、体制社会に受け入れられていく。日本のように民主主義の原則に従って、議論することが正常に機能しないと、不動な体制を築くため、言論の自由、表現の自由が抑制される社会を想定しなければならない。右とか左とか関係なく、この国の安全安心を確保する道が、軍備をすべきかやめるべきかで議論を始めると,船越桂さんの「どうあるべき論」が幅を利かせ、神学論争に堕ち込み、打開の道が切り開かれない。日本人の民主主義成熟度から見ていくと、イデオロギーの呪縛に陥り、軍備可否の不毛な論議が延々と続き、軍備をどのようにすべきかの重要な点がないがしろにされることが、予想される。国民不在になり、体制側が勝手に軍備の内容を決めていくのです。船越桂さんの、「どうしたい」で議論されることがないのです。
今のこの国には独自性に敬意をはらう土壌はないように思われる。
本当に独創的な人は海外で認められてから国内に逆輸入されるという恥ずかしいパタンが主流ではないか。
司馬遼太郎が死ぬまで疑問に思い続けた「日本における拒否権の欠如」ということともつながることで、社会全体を崩す恐れのあるものは、排除される。独自性や拒否権を発揮する人間、いや自分の意見を明確に言う人間は、「変わった人」とみなされる。
意見を言うこと、独創的であることは、この国では、命がけでやることであり、欧米では賞賛の対象となることだ。
それでも国を憂う人は命をかけてやる。
日本の会社/役所の風土とはおよそ相容れない言葉と思います。即ち、日本社会では絶滅危惧種というのは事実でしょう。大体、学校教育の場ですら こうした視点が培われることは まずない。「わかっている」個から個へ辛うじて受け継がれているのが精々でないか。なんとツマラナイ、貧しい社会でしょうか。80年代の一時期、「米欧のモノマネ時代はもうお終い。これからは独創だ!」などと盛んに言われていましたが、今や見る影もなし。結局あの後 日本が選んだ道は「拙誠は巧欺にしかず」でありましょう。先日、温泉宿で出された地元の味の濃い野菜(料理)を食べつつ、日頃はスーパーに並んでいる、形と色だけの、何の旨味もない出がらしのような野菜ばかり摂っていることを改めて実感。
集団ボケ。と言った言葉があります。
スーパーの野菜は、大量消費社会の典型ですね。
むかしながらの野菜は味が濃かったとのことですが、農家はおのずから「育てる」という発想で作っているだろうなあと推量しました。いずれにせよちゃんと手をかけているのでありましょう。
日本のものづくりの基本はしっかり手をかける(=手を抜かない)ところにありますね。
中嶋誠之助曰く「いい仕事してますねえ」の世界。
やはり、AI、コンピュータの万能化が進むこの時代にあって、生身の人間自身が「手を抜かない」ことも併せて守り続けないと、日本の将来は本当にロクなことにならないと思いますね。
p_fさんのコメントはいつもながら啓発的です。
骨のあるMythe et poemeさんのコメントには いつも立ち止まっております。