1: 2009年4月5日オバマ大統領はプラハにて演説を行った。核兵器廃絶に向け、歴史的演説と位置づけられた。中身を見てみたい。
・ 今日、焦点をあてる問題は私たちの国の安全保障と世界の平和にとって基本的なものです。21世紀の核兵器の未来についてです。
・今日、冷戦は消えましたが、何千もの兵器は消えませんでした。
何千もの核兵器の存在は冷戦の最も危険な遺産です。
・20世紀に自由のために立ち上がったように、21世紀にすべての人が恐怖から自由に生きられる権利のために一緒に立たなければいけません。核保有国として、核兵器を使用したことがあるただ一つの核保有国として、米国は行動する道義的な責任を持っています。私たちは一カ国ではこの努力を成功させることはできませんが、リードすることはでき、始めることはできます。
・だから今日、私は明白に、信念とともに、米国が核兵器のない平和で安
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2009年青臭い大統領が、理想、夢を語ったが、現実の壁に押しつぶされてしまった。お話のように任期の終わりに、ノーベル平和賞もいただいており、挫折感を抱きながら、己の初心を貫徹するということでしょう。自己矛盾した状態を解消し、自己満足するに過ぎない。パーフォーマンスに始まり、パフォーマンスで終わる。
大統領は絶大な権力を握っているが、社会主義社会を目指すには、オバマ氏の姿勢では、米国民の絶大な支持が欠け、盤石の利権構造の前になすすべがなかったともいえる。トランプ氏とかサンダース氏とか、米国社会の構造改革を目指す後継者が現れていることを、時代の産物かもしれないが、オバマ氏の大きな功績と評価したい。
孫崎先生のおっしゃる通りだと私も思います。
日本の外務省の主流がこの時既に米国のネオコン・シオニズムにすっかり毒されていたのですね。さーこれから私たちはどう動けばよいのか?安倍氏たちはメデイアの報道を細かく操作してオバマ・ブランドを大いに活用するでしょう。既に安倍氏の人気が向上しているみたいだし。
こういう状況は実に困ったものです。米・ネオコン・シオニズムはヒトラーのナチズム、ムッソリーニのファシズム、東条のミリタリズムに比較して遥かに狡猾、残忍、無慈悲、悪性なのに日本を含めた西側のメデイアがひたすらそれを隠し逆に自由の旗手として持ち上げるものだから西側の大衆の大半がそう信じ込まされている。
昨日、ニコニコ動画で放映された「沖縄ウリズンの雨」みたいな真実がなかなか「大衆レベル」まで浸透しない。そういう状況をどう打破するかが核戦争をも視野に入れた安倍政権の今後の暴走を食い止める前に立ちはだかった壁だと思っています。
オバマ政権がダメ政権なのは朝鮮政策がデタラメだったことです。
まったくの無策で、就任当初から長きにわたって北朝鮮などこの世
に存在しないフリをしていた。
北朝鮮など相手にしないというのが唯一の政策だった。
米国との関係改善を熱望する北朝鮮はリベラル大統領の誕生に大きな
期待を持って見守っていたはずなのですが、冷水をぶっかけられた。
核開発は当然すぎる回答です。
オバマは北を無視することで何を期待したのか、どんな展開を読んで
いたのかまったくわからない。
キューバとの関係改善も大事だが、就任1期目の北朝鮮政策のデタラメさは
あまりにひどく、核拡散に無策だった大統領として歴史に刻まれる。
私は、オバマ大統領が広島訪問を希望したにもかかわらず、藪中大使が拒絶したのは、日本政府が核兵器を持ちたいがためだと感じていました。従って、なかなかオバマ大統領広島訪問が実現しなかったのは、現在マスコミで報道されているようにアメリカ世論の動向にあるのではなく、日本政府の拒絶にあると考えています。
今時、中国や朝鮮民主主義人民共和国の脅威をマスコミを使って煽り、核兵器を持つことは憲法違反にならないと閣議決定したことなど、安倍政権は、核兵器を保持する方向へ世論や政策を醸成しているかに思えます。この状況で安倍内閣が積極的にオバマ大統領訪問を画策したとは到底思えません。むしろ今回の決定は、大変ちぐはぐな印象を受けます。
アメリカが、日本側に貸与していたプルトニウムを、引受先の州知事の了解を得る間もなく引き上げさせたことにも、日本が核兵器保持に向かっていることに警戒感を示していることが現れていると思います。
IAEAの最大の監視対象は、実は日本だと聞いたことがあります。
私は今回のオバマ大統領訪問は、安倍首相を引き連れて広島訪問することにより、安倍政権が核兵器保持に動かないよう釘を打つためだと考えています。日本が核兵器を持つことに反対の私としては、歓迎すべき出来事だと思っております。
真相をずばり一突きの孫崎さん。
「おはよう寺ちゃん」ではかなり控えめにコメントされていましたが、これが言いたいことだったんですね。
わたしは、戦争に敗けた国であり、侵略した国である日本が、同時に被爆国であるというこの複雑なありようこそ、世界大戦の何たるかを如実に物語るものだという気がする。
日本の経験は、果てしなく重いということだ。耐えられない程の重さである。
中国には謝罪せねばならない。戦勝国にも降伏せねばならない。
では、無差別大量殺人に対しては???
結果的に経済的繁栄を与えてくれた米国には謝罪を求めない、というのが日本国民の多くの声なき声なのであろう。
それを塩野七生が、なぜか、イタリアくんだりから称賛するという不自然な一こまもあった。
それは見識としては高くはないし、卑しくさえあるが、生きるための方便というなら言えなくもない。
だが、あのピカドンで一瞬に蒸発させられた人の魂は浮かばれまい。
軍部が独走した戦争で命を奪われ、生活を破壊された多くの無辜の民の魂も浮かばれまい。
被爆者二世の方のなかに、米国大統領が広島を訪れてくれたとうれし涙を流した人がいるというが、なぜ「謝罪」のことばなくして許せるのだろうか?
これが交通事故で近親者を殺された家族なら、うれし涙をながすものだろうか?
もう忘れたい。重い思い出や重い恨みから解放されたい、ということなのか。
それはそれでよいと思う。
しかし、それは自分の問題であり、米国大統領の訪問を美化する手助けをすることはなかったと思う。