「坂下門外の変」⑤ 東京都千代田区三番町に「この地にて、伊藤博文(明治政府初代首相)が塙次郎を斬殺」という記念碑があったらどうでしょうか
江戸時代「番町で目明き盲に道を聞き」とい川柳がありました。ここで「盲」と言われたのは塙保己一です。この塙保己一は『群書類従』刊行を行う大事業を成し遂げています。「道を聞き」は道路案内だけでなく、学問の道をも意味しています。
かつて「千代田区三番町24には、「塙保己一和学講談所跡」の標識がありました。
しかし、もし、この標識が「この地にて、明治初代首相伊藤博文が幕末、塙保己一の息子
塙忠宝を暗殺」となると、訪れる人もあるのでないでしょうか。
「坂下門外の変」に関連して、伊藤博文は一段と過激な行動をとりました。
すでに「坂下門外の変」に関与した人々が、「斬奸趣意書」を書いたことを死崩壊しました。この中に、「天子之御讓位を奉釀候心
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伊藤博文が塙忠宝を暗殺したことは初めて知った。しかし、だから、どうだと言いたいのかな。そっちの方の意見も聞いてみたい。思わせぶりに、「知ってましたか」なんていうだけで、尻切れトンボにするのはいい趣味じゃない。自分の主張があるのかないのか。評論家として半人前じゃないか。また、伊藤博文自身も朝鮮人愛国者に暗殺された。そっちはさらに有名なので知っていたが。結局、そのころ、この日本とその近くの国々は近代化に向かって大変動の時代だったのであろう。ちょうど、今の中東のように。そう思えば、後に初代の総理大臣となった伊藤博文が塙忠宝を暗殺したことも、取り立ててどうということも無いかも知れない。人殺しを罰する法律がなかったとすれば、しょうがないじゃん。
伊藤が長州の乱暴者で、江戸のイギリス公館の放火を始め幕府嫌がらせのテロリストだったことは知ってますが、学者の暗殺を自らの刀でやったとは知りませんでした。その後、彼ら下級武士たちはイギリスの支援を得て革命を成功させたのだからこれまた驚き。彼ら下級武士たちは一挙に皇族の次の貴族に上り詰め栄華を満喫した。典型的な国盗り物語ですね。
今も中東やインドネシアやフィリッピンには伊藤みたいなテロリスト志願者が沢山いて、イギリスならず米国の機関が彼らを陰に陽に支援しているのは世に知れたる事実です。伊藤たちの幕末のテロを昔のことだと一笑に付す訳には行きません。
根拠をたどり、ウィキペディアによると、
「文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺をが画作し、8月に自害した来原の葬式に参加。12月に品川誤電山英国公使館焼き討ちに参加、山尾庸三と塙忠宝、加藤甲次郎を暗殺するなど尊王攘夷の志士として活動した。1864年、長州藩が幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉のもとに一番で駆け付けた。」
高杉に駆け付けた行動が、木戸とか尊王攘夷論者の信頼を集め、伊藤の人生を切り開いていったのでしょう。
具体的な話は今回はじめて知りましたが、伊藤がなんかの暗殺にからんでいたのは知っていたし、もともと松下村塾出身で過激な活動をしていたのだから、特に驚きはありません。しかし、孫崎さんはこの話で何を言いたいのでしょう。
『アーネスト・サトウと倒幕の時代』の出版予定があるそうですが、孫崎さんはその著書で、この件から幕末日本への外国の介入へと話を広げたいのでしょうか。
もしそうなら、今までも聞いたようなありふれた話ではなく、伊藤の若いころに浴びた松蔭の思想や、攘夷思想と、後年の実践家伊藤博文との関係。もっと抽象的にいえば、イデオロギーと人間の実際につくる世界との関係について、孫崎さん自身の議論を聞きたいものです。
イデオロギーを貫くことも解毒することもできないで一生を終えるヒトビトのなにかの参考になるでしょう。
伊藤博文についての知識といえば千円札の顔ぐらいだったが、その後 日本史の授業か何かで通り一遍のことは頭に入ったかもしれない。当然「暗殺者」の認識は無い。
それからウン十年経ち、安重根絡みの辺見庸氏の論で「伊藤博文とはなにをなした人物か」薄々勘付き始めた。
それとは別に記事にあるような「顔」もあったとは。
辺見氏が糾弾する「政治家、マスコミが日本の『征韓論』の歴史と淵源をまったく知らない、知ろうとしない」ことと、伊藤博文ら その主要人物たちが国内でしでかしたことは 恐らく不可分だ。
いつものことながら、定説を覆し正体を暴く孫崎さんの新著に期待。