在外公館でご一緒した方(故人)の句集『紫陽花Ⅱ』から幾つかの句を選択しました。
・雨毎に青さ増し行く紫陽花は 庭端に籠もれる清き手毬
・夏休み朝顔日誌忘るとも 健気に開く今朝の花あり
・杳き日は母の好みし桔梗模様 今夏掛けに浅葱地清し
・花吹雪はらりひらひら一面に 若く逝きたる君の無念
・はにかみをくるむごとくに花満ちて 秘めし思いの伝わらん
・人しれず野に咲くすみれ誰が為か 静けき色の小さき花よ
・冬椿緑の垣に紅の 灯りともしてさんざめくらん
・どくだみのおどろおどろしき名に反し 花は真白き小さき十字架
・イギリスの庭に咲くバラ誇らしげ 庭のヒロイン小鳥を招く
・時刻む音ふいに止み思い出は ゼリーのごとく固まり始む
・待ち詫びし便りなきまま秋雨に かえでの紅葉闌けゆく真昼
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いずれも素敵な詩、特に、どくだみのおどろおどろしき名に反し花は真白き小さな十字架、が好きです。
句集ではなく歌集ですね。
どくだみは毒をたむ(矯む)から由来してるので、ぜんぜんおどろおどろしくなく、むしろ逆。うたのモチーフ(「名に反して実は可憐で清浄」)もありふれててつまらないし。
また、どくだみは匂いはアレですが、食用にすることもあるし、茶にもなるし、クスリにもなる。昔の人の生活に密着して愛された草です。作歌したひとはそんなことは知らないのでしょう。
いまの年寄りは、それ以前の年寄りとは異なり、ひとつの世代として、昔ながらの伝統的な知識や倫理(いわゆる「おばあちゃんの知恵」とかいわれるもの)を受け継ぐことなく生きてきたということが、よく伝わります。
そのかわりに、どこかでだれかがなにかの目的のために作った安っぽい感傷(たとえば「地球環境を守れ」)に簡単にひっかかる。底が浅くて目も当てられないが、残念ながらもうすぐ「汚れた人間」として自然に帰るしかない運命ですね。
ただ、このなかでは、
待ち詫びし便りなきまま秋雨に かえでの紅葉闌けゆく真昼
は、わりといい。
というような評論に、あれこれ言いたい人はいるとおもいますが、ほんとうにうたを作る人なら、こういう辛辣だが内容のある批判は、たぶん歓迎するでしょう。
高校同級生の中に、短歌、俳句をたしなむ人が多い。特に海外に駐在した人が顕著です。
このような個人発行の歌集が配られてくる。生きた証を詩に託して子供、孫などに残したいと考えている人が多い。
私には、歌がうまいのか下手なのかはわからないが、歌を詠んでいると素直に情景が次から次へと脳裏に浮かんでくるのがいい。難しい漢字を使う人は、堅物が災いするのか、情景が浮かばない。だから、論理的傾向が強い人の歌は好まない。
紫陽花が手毬などは説明でしかない。余情感が全くない。他の短歌も同じようなことが言えるが,やめておく。