A-1 秋篠宮殿下ご発言内容(2018年11月)秋篠宮殿下は30日に53歳の誕生日を迎えられたが、これに先立ち行われた記者会見での発言内容
「即位の礼は,これは国事行為で行われるわけです,その一連のものは。ただ、大嘗祭については,これは皇室の行事として行われるものですし,ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて,それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成のときの大嘗祭のときにもそうするべきではないという立場だったわけですけれども,その頃はうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局,そのときを踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。
ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは,今でも持っています。整理の仕方としては,一つの代で一度きりのものであり、大切な儀式ということから、もちろん国もそれについて
コメント
コメントを書く徳川家康は天皇家の威光を極端に抑え幕藩体制を完成させたのです。その後、経済が発展するにつれて、幕府の威光が衰え始めました。その威光回復の為に綱吉の代になって大嘗祭を復活させたとのことです。これは公武合体の走りではないでしょうか。良いも悪いも超えて、天皇は国民を支配する為の手段として利用される機関とする考えは建国当時より変わっていないし、今後も続きましょう。
大嘗祭だけを取り外し、身の丈でやると言っても、そこに付けこむ政治勢力が別個に生まれるのは当然想定されるわけです。そこから生まれる危険はやはり無視出来ないのです。従って、今のままで良いのではないかと私は思います。問題は「桜を見る会」で明らかになったように、国費と民費が絡むと会計も不明朗になってよろしくない。どうも、儲かったのは政治家とそれを請け負ったイベント屋じゃないかと私は勘ぐっているのです。大嘗祭では多くの資材が使われ、儀式が終わったら払下げられる。是非、大嘗祭の収支報告書を国民の前に提示して貰いたいのです。資本主義自由公正国家としては最低の義務ではないでしょうか?正しい収支報告書が国民や納税者の前に提供されれば、別に問題はないのじゃないですか。
この項で忘れてならないのは唯一つ。「国民を統制する目的」は現代に於いては戦争遂行以外に無いわけですから、平和憲法と一対となる天皇制を維持することが担保される限り、大嘗祭の出費は安いものだと私は考えます。
憲法違反かなんて気にしなくていいわけですね。
やれやれ。
>>2
はい、そうです。
世界史の奇跡ともいえる皇室の継続は、唯一の日本の象徴である天皇に求められる。
近代化を進めるために、王はじめ特権階級を処刑にしてきたのが、①イギリスの市民革命であり、②フランス革命である。
中国近代化は日本と同じように秦の始皇帝から2100年続いた王朝も清王朝で終止符を打った。中国の場合は、立憲派と革命派の争いで革命派が勝利を収めた。一方日本はの近代化は明治維新であるが、皇室と幕府が暴力的な抗争になることなく、微妙なバランス感覚で「大政奉還」し、天皇に恭順した。
日本が他国と違うのは、行政を担う組織と皇室で各々の果たす役割が違っていたことであり、皇室に対する国民の尊崇の念が深かったというべきでしょう。第二次大戦という不幸な時期はあったが、日本人の皇室に対する尊敬の念は、自己犠牲を犯しても守り抜く精神が一貫している。
皇室に対するゆるぎない尊崇が世界で類を見ない継続を続けており、大嘗祭のお金が多すぎるだとか、税金だとか、皇室経費でやるべきだという意見に与することはできない。
>>4 追記
秋篠宮殿下が宗教色の濃いことに触れているのが気にかかる。宗教色が強くなることが全く分かっていない。
皇室は日本人にとって、心=魂=平和=神に通じており、時の行政府は,言動=俗世=世情=戦争=修羅に通じており、人間の心身の本質と現実的あり方の二面性と異なるものではない。
皇室の平和性は「心」に通じており、行政府の好戦性は現実的姿であり、日本は「心」と「言動」を」一体的に見て、バランス感覚が秀でた鈴木大拙が言っている柔軟な「日本的霊性」=「バランス感覚」が常に働いているとみるべきでしょう。まさに宗教的バランス感覚であり、宗教色が濃くて当たり前、宗教色がなければ、皇室は早くなくなっていたことを秋篠宮殿下は全く分かっていない。皇室の根源を理解していないというべきでしょう。