本ブログは、『エコノミスト7・14』掲載「読書日記・暴君ネロに仕えた人物が“怒り”の処し方を語る」を基礎に、加筆、修正したもの。
私は国際政治を学ぶのに最良の書はナイ著『国際紛争』と思っている。基本的に今日外交・安全保障で考えるべきことをほぼ網羅的に記載している。本書は基本的にハーバード大学での講義を基礎にしたものとみられ、高い水銃を保ちつつ、外交・安全保障を学んだことのない人への入門書ともいえる。彼はこの書の中で、「国家の行動で、20世紀の学者が知っていることで、ギリシア人が知らなかったことがあるか」と記述して、ギリシア古典の重要性を指摘した。それはローマ時代の古典にも通ずる。
セネカはユリウス・クラウディウス朝時代(紀元前27年 - 紀元後68年)のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えた。ストア派
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私みたいな反アングロ・サクソン主義者は暴君ネロに仕えるしかなかったセネカに何をか学ぶのにどういう意味があるのか考えざるを得ません。
暴君ネロの残忍とほぼ同質の残忍が今も中東でイスラエル・米国によってコミットされている現状に世界が直面させられている。「怒らない方法」や「怒りをコントロールする知恵」が世界人にいかなる積極的な意味を持つのか、ましてやガザ地区のパレステイナ人はどう思うだろう?
一方、日本人のトップから末端までこと米国の残忍に関しては存在するのに存在しない認識を持たされ、怒ると言う感情が磨滅してしまっているように私には見えるのです。
「セネカの著作を読みもしないで、フレデイー、いい加減にしろ!」と罵声が飛んできそう。
セネカもまた初耳ですが、係る本の帯に「最近、イライラしてませんか?」とあった。
そのレベルの火種であれば、紹介されたセネカの言葉はいずれも説得力があると思う。
だいたい、怒る門には福来たる という諺はない。怒って当たり散らしたりしなければ「あの人は人間が出来ている」と褒められる。
しかし、もっと大きな火種を抱えた日には そうはいかないと思う。堪忍袋の緒が切れたからこそBLM運動も加熱した。
やはり、権力や巨悪の理不尽に抗う原動力は「怒り」でないか。「戦後史の正体」の悪意あるデタラメ書評を載せた朝日新聞に対して孫崎さんも大いに怒ったと思いますが、全く正しい反応でしょう。
「怒りによる様々な現象」を見ていくと、悲惨な結果を招くことが多い。
自分・社会に怒りをぶつけることは、青春時代に誰でも経験する一つの関門です。怒ってもどうにもならない、解決しないことが分かり、社会との調和を図ってきている人がほとんどでしょう。中には自己処理ができず「自傷行為」、「自殺」などの不幸が出てくる。
日常的には、家庭内、友達関係、会社関係、社会、国家、世界に対して「怒り」を抱くときが絶えない。関係が深いことで「怒り」が常に起きると、ストレスを引き起こし、うつ病とか周りに対する感情をむき出しにすることが多くなり、さらに対人・環境とがうまく回転しなくなる。悪くなればなるほど、自分を正当化し、他人を悪く見るので、関係悪化が際限なくなる。
社会・国家・世界に対する不満は、ストレスの中でも逃げ道があり、体を害することはないが、人間関係の中で常に主張すれば、対人関係が悪くなるというより、接触の機会が喪失していく。
>>1
同感です。
大事な決定は怒りにまかせてしてはならないというくらいは
納得しますが、怒りをまるで、下劣な否定すべきものである
かのようにいうのはどうかと思います。
わたしは以前、自分はベトナム戦争が育てた子だと書きましたが
それは具体的に何かと言えば、怒りでした。
アジアの民を無慈悲に殺しまくる国への怒り。
怒るべき事柄に怒らないのは人間の堕落。
今は堕落した人が多すぎると思います。
米国に対する激しい怒り。