私は最近ほぼ毎日ツイッターに花の写真を載せています。きっかけは日課の変化です。
私は長く皇居一周ジョギングを行ってきたのですが、左右の足の親指の付け根から赤く腫れ出し、痛風の様な症状を招き、一、二か月休む、再開すると他の部分を痛めるということでなかなか走れない。ということでジョギングを中止し、散歩と階段上りに切り替えたのです。千鳥ヶ淵緑道→九段坂公園→千代田区役所前→坂下門→北の丸公園→代官通りと回る。途中に様々な花があるので写真をとってツイッターにアップしたのです。
幼い頃、田舎のどの家にも花が活けてあったような気がします。外務省に入ってソ連勤務の時にはロシア人が花をとても大切にするのを見ました。ロシア人には冬が長い。中央アジアなどから送られる花は長い冬の圧迫感からの解放だったのでしょう。
転勤の多い私は、本はあまり保持しません。それでも手元に、1983年発行『日本の名随筆1 花
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孫崎さんは、「日常的批判」といっておられるが、自他とも優秀とみられている人は、「リスペクト」の言葉が、その人の基盤である場合が多い。
他人に「リスペクト」の言葉を求め、「リスペクト」の言葉がないと、毒のある言葉というより、「嫌みな言葉が出てくる」のはよく経験することである。素直に「リスペクト」ある言葉があれば、相手を「リスペクト」して、相互の信頼関係が築かれる。私の仲間は、そのような人が多い。
今回「花」の話が出ているが、外国旅行し、西欧の人に花の名前をお聞きすると、「花」としか答えが返ってこない。日本人は、花の種類だけでなく、花の形状、数量に対しても、繊細な表現で花をめでるのである。「3本は直であり、2本は曲である」という表現で多数の花をめでている。「多即個であり、個即多である」が、この表現は日本人でなければ理解できないでしょう。
先のオリンピックの空手の型で、日本人の心を理解した選手を見つけ、日本の心を日本人以上に理解している人がおり大変驚いた。スペインの選手であり、153cm、48kgというように日本人と変わらないが、日本人の相手のコーチに対して正座して両手で握手を求める姿を見て感動したのは私だけではないでしょう。
日本人のその時にすべてをかけて生きる「生即死、死即生」の精神が、スペインの人に生きている姿は、驚きであると同時に、日本が理解されていると嬉しくなった。
> かつて...天野之弥氏(国際原子力機関事務局長になられた)が「孫崎さんの言葉には毒がある」と評したことがあり
ウィキペディア:“天野は米国のIAEA担当大使に対し、「高官人事からイランの核兵器開発疑惑まで、あらゆる戦略的な重要決定について、断固として米側に立つ」と表明したとされる”━ならば、係る評は「さもありなん」でないか。
孫崎さんが美しいと思う理想の世界と現実が益々乖離していく以上、「理想-現実=問題」は当然大きくなる一方であり、今や在野の立場では この問題解決に「薬」で当たるのは難しい。ダメ元でも「毒」を放つしかない気がする。一人でも多くの人に「問題」が在ることに気付いてもらうためだ。だが、この「毒」は「怒り」に端を発しているため、ご当人の健康に良くないのは確かだ。よって、花へのワープは自然な欲求でもありそうだ。そうして悪しき思考のループに陥るのを避けつつ、ご活動継続して頂きたい次第です。
オフチンコフさんの観察は鋭い。
中国にとっての宗教は倫理学。それに相応する日本のものは自然愛。中国の芸術的感動は人間の手の全能を主張し、日本の芸術が自分の意思を素材に押し付けない。
確かに。異論の余地はない。
次のテーゼの導入にも使うことが出来そうに思う。勿論、そう思わない人もいるだろうが。
中国は人民民主主義共和国であり、その理念はマルクスレーニン主義。日本は明治維新に採用した「選挙に基づく立憲君主国」でその理念は神道。
違いますか?
私の理想は上記のどちらでもない苫米地英人とフィデル・カストロ・デイアスバラールトが描いた「もう一歩先の世界」です。
毒になってごめんなさい。
孫崎さんこんにちは。初沢克利です。
お久しぶりです、いつも読ませていただいております。孫崎さんの投稿をfacebookでシェアさせていただいております。
私も偶然ですが一年前より毎日一枚ということで花の写真を載せています。散歩しなければという年齢になって久しいのですが、歩きながら町の散歩道の写真を撮ったり路傍の花を撮ったりしていました。スマホでもよく撮れるのでありがたいし、あまりにも多くの花が身の回りにあることに気づきます。見ることの喜びを共有したいという意図があると撮影も面白くなります。誰がデザインしたのでもない花の美しさに自然界の奥深さや畏れが伝わって来ます。
それぞれの花の名前が調べるとわかるのですが、その名前を通してかっての日本人の生活やセンスが想像できるのも楽しいことです。
私もおっしゃるような動機で始めたのが不思議に感じております。
(Twitterもやっているのですがここ5年はfacebookをメインにしております。)
こらからもますますのご活躍期待しております。
>>3
君主は民主を否定する対立概念です。
「選挙に基づく立憲君主国」なんてとんでもない形容矛盾。
事実、明治政府が目指したものは民が君にひれ伏す
絶対天皇制国家だったように思うのですが。
まあ、今だってそんなに変わりませんが。
天皇好きの人に道理を説いても始まらないことは長年の経験で
よく知っているのですが、それでもこの問題ではちゃんと
したことは言っておかねば。
>>5
確かに、そう言われれば、そうなんですね。
ただ、今の自民党政治を観察してると、日英同盟時の桂太郎や西園寺の政治に似ていて、当時あって今無いのは統帥権だけです。米国の戦争屋はそれを離さないでしょう。又、いろいろ言われるが、戦前も一応選挙してましたし。
もう一つ、天皇好きというより、天皇の国民の象徴としての役割は何かを真面目に考える姿は平和主義者の私には評価できると考えているのです。
私は共和制が優れていると考えてます。
孫崎さんの随想にケチをつけるつもりはまったくありません。「美しいものを愛する」点はそのとおりです。しかし、以前から孫崎さんの随想で少し気になっていたポイントを端的に述べたいとおもいます。
「自然」をどう考えるかということです。孫崎さんは、「日本人は世界で最も自然と親しんできた」とお書きですが、都会のまんなかに住んで余裕のある暮らしをし、まちを散歩し、スマホやデジカメで、だれかが栽培している植物等の写真をとり、ネットにアップする、というのは、たぶん日本の多くの高齢者がうらやましがるような最先端の文明生活なのではないでしょうか。ある意味では、「不自然」な生活です。美しいものを愛しているのはまちがいないですが、自然を愛しているのかどうか。「自然」をどのように考えるのか、考えるべきことが、ここにはあるとおもいます。