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「助言-若い世代へ⑨別れに際して」「おみさ居らねば餅つく気にもならず」と「(ジム)お前は私の代わりに彼女の手を柔らかく舐めてくれ」
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「助言-若い世代へ⑨別れに際して」「おみさ居らねば餅つく気にもならず」と「(ジム)お前は私の代わりに彼女の手を柔らかく舐めてくれ」

2016-03-21 07:26
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「助言-若い世代へ」としているが、今回はどう考えても、若い人々への言葉ではない。

でもいいか。書いてみよう。ひょっとして、伝わるものがあるかもしれない。

「おみさ居らねば餅つく気にもならず」

たまたま、中野孝次著『老いの矜持』に出てきた。次の解説がある。

「中野好夫は“私の文書心得」という短文の中にこのことを書いていて、それによると、この文章は、彼の母方、曾祖父、並河聴雨という人の日記にある由。聴雨は幕末から維新にかけての儒者。聴雨は70歳をいくつか越した年に、糟糠の妻おみさに死なれた。実子はなく、養子夫妻は都会に出、老夫婦二人きりの暮らしでだった。そしてその年の歳末の日記にただ一言、この一行を書き残していた。」

 こちらは残された者の心情を書いた。

 これから去る者の心情を見てみたい。ソ連の詩人エセーニン(1895103-19251227日)の詩である。

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我々老いゆく高齢者には、ジーンと胸に突き刺さる話である。

私も、子供たちは独立し、老夫婦二人の生活が続いているが、どちらかが先立ち、残されたものがあるという現実から逃れることはできない。残されたものの孤独、乗り越える力源泉を何に求めるか、それが問題なのでしょう。先立つものの心境は、どこかで伴侶の入所施設問題は避けて通れない。子供たちがどの程度面倒を看れるかという現実熟視と、現実的には無理であるが、看てほしいという願望が錯綜する。いつの時代、どこでも、だれでも、共通する人生の心配であり末路ではある。

No.1 105ヶ月前

政治など他人にも関係することであると活発な意見が出るが、自分自身のことを問われると、何も言えなくなってしまうことが、一番問題である。人のことを言う前に、自己を見つめるべきでしょう。日本の自立など程遠いことになってしまう。

No.2 105ヶ月前
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