「助言-若い世代へ」としているが、今回はどう考えても、若い人々への言葉ではない。
でもいいか。書いてみよう。ひょっとして、伝わるものがあるかもしれない。
「おみさ居らねば餅つく気にもならず」
たまたま、中野孝次著『老いの矜持』に出てきた。次の解説がある。
「中野好夫は“私の文書心得」という短文の中にこのことを書いていて、それによると、この文章は、彼の母方、曾祖父、並河聴雨という人の日記にある由。聴雨は幕末から維新にかけての儒者。聴雨は70歳をいくつか越した年に、糟糠の妻おみさに死なれた。実子はなく、養子夫妻は都会に出、老夫婦二人きりの暮らしでだった。そしてその年の歳末の日記にただ一言、この一行を書き残していた。」
こちらは残された者の心情を書いた。
これから去る者の心情を見てみたい。ソ連の詩人エセーニン(1895年10月3日-1925年12月27日)の詩である。
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我々老いゆく高齢者には、ジーンと胸に突き刺さる話である。
私も、子供たちは独立し、老夫婦二人の生活が続いているが、どちらかが先立ち、残されたものがあるという現実から逃れることはできない。残されたものの孤独、乗り越える力源泉を何に求めるか、それが問題なのでしょう。先立つものの心境は、どこかで伴侶の入所施設問題は避けて通れない。子供たちがどの程度面倒を看れるかという現実熟視と、現実的には無理であるが、看てほしいという願望が錯綜する。いつの時代、どこでも、だれでも、共通する人生の心配であり末路ではある。
政治など他人にも関係することであると活発な意見が出るが、自分自身のことを問われると、何も言えなくなってしまうことが、一番問題である。人のことを言う前に、自己を見つめるべきでしょう。日本の自立など程遠いことになってしまう。