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  • 映画監督 菅原浩志のメルマガ №3 「映画の現場から」/「ハリウッド映画の現場から」/他

    2012-09-30 17:00  
    330pt
    今回も「映画監督 菅原浩志のメルマガ」にお越しいただき、ありがとうございます。これまでの経験、体験から、そして、新たに感じた事をお伝えし、皆様の何かのお役に立てればと思い、このメルマガを綴ります。
    先週は山口県周南市にある徳山大学で映画製作実習を行なってきました。先ずは、そこからのお話です。
    【映画の現場から】
    映画の現場と言っても、徳山大学の経済学部知財開発コースの映画製作実習の現場から。ここは、アニメ、漫画、映像のソフトを知財として開発している学科で、ここで学ぶ学生達が映画を作る実習。
     

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  • 映画監督 菅原浩志のメルマガ №2  「新人監督の話」/「シュワルツェネッガーの話」/他

    2012-09-20 17:00  
    330pt
    前回の「映画監督 菅原浩志のメルマガ№1」を読んでいただき、ありがとうございました。より多くの方に知っていただくため、前回、今回と無料で読んでいただく部分を多く致しました。次回9/30配信分からは有料会員様向けに戻させていただきますが、是非、今後ともよろしくお願いします。
    今回は、前回の監督スタイルに続き、新人監督の話。
    【THE ROAD TO 映画監督】
    「誰でも新人監督から始まる」
    そう、世界の黒澤明監督でも、第一回監督作品があり、全ての監督は新人監督の経験がある。
    新人監督でも、映画俳優から監督になろうとした人の話。「シルバラード」「アンタッチャブル」「追いつめられて」そして、「フィールド・オブ・ドリームス」の主役を務めたケブン・コスナーが、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の監督を志した時、彼が所属するエージェントで、直接彼の話を聞くことが出来た。
    「自分は映画俳優としては、認められているが、映画監督としては、全く認められてなく、たった50ドルの価値しかない」
    映画監督としての経験が全く無く、全くの未知数で、映画会社も、彼が監督する作品のクオリティを予測出来ず、彼は、作りたかった「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の製作費を集めるのに、非常に苦労していると、嘆いていた。
    映画監督の経験がなく、どうやって映画監督になるのか?俳優として実績があるケブン・コスナーですら、監督になるのに苦労していたのである。
    監督志望ではなかったが、同じ役者の話。
    多くのアメリカの俳優が所属しているエージェントで、アーノルド・シュワルツェネッガーと話す機会があった。彼が未だカリフォルニア州知事になる随分前で、「コナン・ザ・グレート」に出演し、「ターミネーター」で悪役を務めていたころである。
    彼は、オーストリア出身のボディービルダー。芝居の経験もなく、英語は訛りが強く、決して流暢でないにも拘らず、彼はアメリカ映画界で、活躍していた。何故、彼はアメリカ映画で活躍できたのか?ボディービルで鍛えた肉体が売り?独特の風貌が、悪役に抜擢された?アメリカ映画界での彼の成功の秘訣を聞いてみたかった。
    彼は、あの独特の英語で答えた。「目の前に来たチャンスを掴んだだけさ。 殆どの人は、目の前にチャンスが来たら、それから準備するけど、 自分は、身体を鍛え、精神も統一して、 チャンスが来るのをじっと待っていて、来た瞬間、捕まえただけさ」
    いつ来るかも分からないチャンスを、身も心も準備して待ち続けたアーノルド・シュワルツェネッガーに、感心したのを覚えている。
    私事になるが、監督デビュー作が「ぼくらの七日間戦争」。当時、日本で映画監督に成れるのは、助監督として経験を積んだ人々。私には、助監督の経験が無かった。あるのは、映画プロデューサーとしての経験。私の最初のプロデュース作品が「里見八犬伝」。
    当時、映画監督志望であった私に、会社の社長が言った。「映画監督は、シナリオが出来上がってから指名され、 作品が出来上がったら、それで終わりだ。 それに比べ、映画プロデューサーは、 映画の企画を考え、監督を指名し、 作品が出来上がった後、宣伝、配給、興行までの仕事がある。 だから、映画プロデューサーの仕事は、 映画監督の仕事を含んでいるんだ。」まだ、20代だった私は、その言葉を信じ、原作が鎌田敏夫、監督深作欣司、主演が薬師丸ひろ子、真田広之しか決まっていない企画を持って、東映京都の太秦撮影所に向かったのである。
    「里見八犬伝」の撮影現場の話は、別の機会にお話するとして、映画は大成功し、当時の邦画の興行記録を塗り替えた程だった。
    その成功に気を良くした映画会社の社長は、私に、もう一本映画のプロデュースを命令した。
    原田知世の「愛情物語」。まだ20代の私が、ヘッド・プロデューサーとして、会社を首になるのを覚悟で、取り組んだ作品である。
    私の力は微々たるものだが、この映画も興行的にヒットし、成功。
    そして、もう一本。森村桂原作、大林宣彦監督の「天国にいちばん近い島」をプロデュース。これも、興行的にヒットし、つかこうへい原作、井筒和幸監督の「二代目はクリスチャン」を次にプロデュース。その次に、「キャバレー」のプロデュースと、プロデューサーの仕事が続き、映画が次々と興行的に成功していったのであった。
    しかし、映画一本プロデュースする度に、私は病気になっていたのである。
    そこから、どう映画監督への道に進むかは、次回にお話しましょう。
    ただ、はっきり分かっているのが、真剣に映画監督になろうとした時、それは、私の人生において大きな転機であり、チャンスでもあった。

    「チャンスの掴み方」
    先程、アーノルド・シュワルツェネッガーのチャンスを掴む心構えを話しましたが、もう少し、チャンスの話を。
    安屋奈美恵さんとTOKIOの山口達也君が主演の映画「That’s カンニング!」の編集中。山口達也君と同じ寮で生活する理系の大学生役で出演した宝井誠明君が、友達に会って欲しいと。彼の友人は、アメリカで映画の仕事に就きたく、どうしたらいいかとの相談だった。「That’s カンニング!」の仕上げ作業をしていた現像所イマジカの喫茶室で、暫く長い時間、話をした。ロスの映画撮影所のこと。英会話のこと。就労ビザのこと。彼はどこまで私の話を理解したかは不明だが、目の前に沢山の参考書を積まれた受験生のような顔をして、彼は帰っていった。
    それから、数ヵ月後。私は、ロスのビバリー・ヒルズを運転していた。ロデオ・ドライブの信号で停車し、目の前の歩行者を何げなく見ていたら、現像所イマジカで会った青年が、そこを歩いているではないか!「来たんだ!ロスに!」と思い、車の窓を開け、彼を呼び止めたが、彼は気がつかない!車のクラクションを鳴らしても、一向に気がつかない!初めて来た外国で、自分が呼び止められるなんて、誰も想像しない…。信号が青に変わり、後続車が動き始めた為に、私は車を出さざるを得なかったが、もし、彼が振り向いていたなら、車の助手席に乗せ、映画のアルバイトを紹介出来たのに…と、悔やまれたのである。
    大げさかもしれないが、彼がそこで振り向いたなら、彼の人生が変わったかもしれない。人生のチャンスを掴んだかもしれない。
    チャンスは、ひょっとして、沢山訪れているのかもしれない。ただ、多くの人はそれに気付かなかったり、自ら断ったり、拒絶しているのかもしれない。例え、気付いても、それから慌てて準備するから、間に合わない。「チャンスの女神に後ろ髪はない」と言われるように…。
    また、チャンスとは、何も準備していない人に訪れるのではなく、しっかり準備している人に訪れるような気がする。「気」が、チャンスを引き寄せるかのように…。
    チャンスがチャンスとは、その瞬間は、なかなか気が付かないもの。後になってから、「ああ、○○しておけば良かった…」と地団駄踏む。
    そこで、チャンスに気が付かなくても、幸せになる方法があるという。「宇宙のルール」。
    それは、「来た話を断らない」私の体験からも、来た話全てが、幸せに繋がる訳ではないが、その話の中には、思いがけない出会いや仕事に導かれることがある。中には、とんでもない胡散臭い話もあるが、断っていたら、何も始まらない。チャンスすら逃してしまう。
    映画監督への道に限らず、全ては心構えが大切。チャンスを引き付ける精神状態を保つこと。チャンスが分からなければ、来た話を断らないこと。それがきっと、あなたの夢を実現に一歩近づけてくれるでしょう。そう私は信じている。
    前回もお知らせしたのですが、「ぼくらの七日間戦争」が、11月9日(金)と10日(土)北海道札幌市のちえりあホールで上映されます。私も映画上映後のトークショーで、映画の舞台裏やメイキング・エピソードをお話する予定ですので、ご興味のある方で、札幌まで来られる方は是非お越し下さい。
    【Q&Aコーナー】では、質問をお待ちしています。質問はこちらまで御寄せください。
     

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  • 映画監督 菅原浩志のメルマガ №1 「汗をかかない女優」/「スコット監督の話」/「監督のスタイル」

    2012-09-12 17:00  
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    前回発行した創刊号を読んでいただき、ありがとうございます。
    私のメルマガが、どこかに届き、何かが変わるきっかけになればと思い、発信し続けますので、これからも宜しくお願いします。
    「汗をかかない女優」
    さて、今年の夏は異常に暑かった。日本のみならず、アメリカも暑かった。脳みそが蛋白質で出来ているのが、実感できるほど、暑かった。
    暑いと言ったら、これまでで一番暑い経験が、ラスベガス。ラスベガスに初めて行くので、どのくらい暑いか分からないから、昼間、車で移動。もう、これが間違っていた。道は高速道路のフリーウェイーだが、だだ、延々と砂漠の中の一直線を走るだけ。砂漠のど真ん中に、突如、聳え立つラスベガスの街。街に着いて、車から出た瞬間、鼻から吸い込んだ空気が熱く、鼻の穴が焼けどした、と思ったほど。車は、触れることすら出来ないほど、ガンガンに熱くなっている。車のボンネットに卵を落とすと、目玉焼きが出来るほどと言われている。ラスベガスがあるネバダ州では、昼間飛んでいる鳥が熱で落ちてくることがあると言う。つまり「焼き鳥」。冗談はさて置き、ギラギラと突き刺さるような暑さで、あれ程、暑い夏の日は初めてであった。
    それでは、日本で一番暑い夏を経験したのは、愛知県豊橋。映画「早咲きの花」の撮影である。昭和29年、豊川海軍工廠が空襲に遭い、学徒動員の多くの子ども達が亡くなった実話を映画化した作品。

    空襲があったのが、8月7日なので、私は、太陽の光や、草木の緑が同じような強さで輝いている、8月に撮影すると決め、豊橋を訪れたのである。
    ジリジリと照りつける太陽。吹き出す汗。水分補給する冷水は、直ぐに汗となり、ほとばしる。現場で何度着替えても、追いつかなかった。
    そして、豊橋の暑さは、それまで経験した暑さと違い、ボディブローのようにゆっくりと、確かに効いてくる暑さ。熱中症で病院に運ばれた出演者の子ども達が何人いたことか。
    私も、撮影中、眩しくて、サングラスを手放すことが出来なくなった。室内での撮影にも拘らず、頭がボーっとして、演出するのが非常に辛い時があった。これは、後で分かったのだが、熱中症で自律神経がやられ、瞳孔が閉じなくなっていたのである。
    スタッフ全員がサウナに入っているのかと思うほど、汗だくになりながら、そして、熱中症を患うほどの暑さの中で、汗ひとつかかないで芝居をしていた女優がいた。浅丘ルリ子さん。

    彼女は、芦田淳さんのスーツを身にまとい、我々と同じ炎天下での状況で、照明のライトやレフ板からの反射日光を浴び、我々以上に暑い筈なのに、額から汗を滲ませることもなく、汗を一滴も流さず、芝居をしていた。
    女優は、通常8月は仕事を断ると言われている。暑さで吹き出る汗。その汗で、メイクが崩れたり、顔がてかったりする。その度に、撮影を中断してメイクを直さなくてはならない。これでは、仕事にならない。そして、これは女優のせいではなく、自然の摂理である。
    だが、どんな過酷な暑さの中でも、汗を一滴もかかない女優がいた。
    彼女は言った。「暑いからと言って、汗をかいていたら、仕事にならないでしょ」
    「心頭滅却すれば火もまた涼し」汗をも止めてしまう集中力。正にプロの技。プロの仕事。
    浅丘ルリ子さんと一緒に仕事をして、大女優とはどういうものかということを教わり、益々尊敬する方になった。
    暑い夏になるといつも想い出すエピソードである。
    【THE ROAD TO 映画監督】
    「スコット監督の話」
    またしても、映画監督が亡くなった。最近公開された「プロメテウス」のプロデューサーで、最後の監督作品が「アンストッパブル」のトニー・スコット。
    イギリス人だが、彼が作り出す映画には、物語を引っ張っていくエンジンの強さがあり、時には強引にも感じるが、かつてのアメリカ映画的エネルギーを感じる。そんな力強さが好きで、彼の監督作品を多く観ていた。惜しい監督が、また一人、この世を去った。
    トニー・スコットの兄が、ご存知の方も多いと思うがリドリー・スコット監督。
    「デュエリスト」で監督デビューしてから、「エイリアン」「ブレードランナー」「ブラック・レイン」と独特の質感と映像で成功を収めていたリドリー・スコット監督だが、「男は描けても、女が描けない」と、ハリウッドの業界で言われ、そこで彼が、「女を描く」作品として取り上げたのが、「テルマ&ルイーズ」。
    そして、リドリー・スコット監督が「テルマ&ルイーズ」のロケハンをしていた時、私も、全く同じユタ州でロケハンをしていて、よく同じレストランで出会った。
    スタッフとテーブルで食事をする彼。多分、その日のロケハンの話をしながらの食事だが、スコット監督は物静かで、彼の声が聞こえてこない。大柄な態度や人を威圧するような態度が全くない。
    しかし、彼の作品には、命を賭して闘う男達が描かれ、これでもかと言うくらい、バック・ライティング(※)に拘り、映画から独特の質感と臨場感が溢れ出る作品が多い。
    ※バック・ライティングとは、登場人物などの被写体が、逆光のライトによってシルエット状、若しくは輪郭が強調されて浮かび上がる照明方法。
    リドリー・スコット監督は、映像の確固たるスタイルを持った監督であり、彼独自の世界感を作り出している。
    「監督のスタイル」
    映画監督のスタイルって何?
    一緒に仕事をする助監督に聞いたことがある。日本の助監督は10人いたら10人が監督を目指している。(アメリカ映画界の助監督はそうではなく、生涯助監督に徹する)「監督志望だよね?」「はい」「将来、監督になったら何をしたいの?」「……監督です」
    将来、映画監督になりたい人で、その為に、映画の現場で助監督を務め、監督の勉強を積んでいる人でも、夢は「監督になること」で、「監督になってから何をしたい」かが、見えていない。
    映画監督は、オーケストラの指揮者の様に、現場のスタッフやキャストを動かす事が好きで、映画監督になるのではない。
    岡本喜八監督が言ったこと。「映画監督になる条件は三つ。ひとっつ。声が大きいこと。ふたっつ。人前で困った顔をしないこと。みっつ。誰もやってないことをやること」
    一つ目は、映画の現場では、スタッフ、キャスト、エキストラの人が数十人から数百人。時には千人以上。その人々に、説明や演技指導をしなくてはならないから、声が大きくなければ仕事にならない。
    二つ目は、監督は常に、選択に迫られている。雨雲が近づいて来ている。曇り空で撮影するか、雨が過ぎ去るのを待つか?役者の演技が、いまいちだが、次のカットに進まなければ、そのロケーションでの撮影が終わらない。この芝居でOKを出すのか、もう一度撮影するか?そんな時、監督が迷った顔をすると、スタッフは不安になる。だから、監督は、どんな状況でも、絶対不安な顔は見せてはならない。
    そして、三つ目が重要。「誰もやってないことをやる」つまり、既に誰かがやったことをやっても、監督としては駄目だということ。常に、新しいビジョンを持ち、創造的でなければならないということ。己のスタイルを見つけること。それが、監督のスタイル。

    最後に、お知らせです。日本映画名作祭2012が11月9日(金)と10日(土)北海道札幌市のちえりあホールで、「ぼくらの七日間戦争」が上映されます。映画祭側のこだわりで、35ミリプリントでの上映です。映画上映後、監督トークが予定されていますので、もし、お近くにお住まいの方がいらっしゃいましたら、是非どうぞ。お問合せ先は、札幌映画サークル TEL:011-747-7314       札幌市生涯学習総合センター TEL:011-671-3425
    【Q&Aコーナー】では、質問をお待ちしています。質問はこちらまで御寄せください。
     

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