蔦文也は長い間、池田高校の監督として甲子園に行けなかった。1952年に監督になり、1971年にようやく行けたので、丸19年行けなかった。20年目でようやく悲願を達成した。
その間、一つの知られざるドラマがあった。それは「徳島商業の監督にならないか」という誘いがあったことだ。誘った相手は、当時徳島商業の顧問で、文也の恩師である稲原幸雄である。
徳島商業の監督は、その頃は須本憲一がしていた。須本は1926年の生まれで、やっぱり徳商に入って稲原の元で野球をしていた。学年でいうと文也の二つ下であった。だから文也もよく知っている人物だった。しかも1942年、徳商が幻の甲子園で優勝したときの中心選手でもあった。
この後輩の須本が、監督をしてからの文也にとっては因縁の相手となった。稲原は戦後に徳商の監督を辞め、後任には須本を指名する。稲原は文也も可愛がったが、彼の目には文也はそもそも監督の器ではな