ので、今回みたいな、こういうのがお好きな方は、「飛ぶ教室」の公式アカウント(?)とか、僕の名前で出てくるタイムライン(?)とか、ハッシュタグなんとかかんとか、色々あんでしょ?あれに「菊地が、<高橋源一郎「飛ぶ教室」の再放送ログ>で一部コメントに検閲受けたことに、今頃、長文の正式コメント出している(有料&長文でw)」
とかなんとか、大いにUPりまくり、NHKさんに文句言ったり、高橋先生に文句言ったり笑、僕の悪口言ったり笑、お好きなようにして下さい。NHKさんは何とも思わないし、高橋先生は目に止めたら傷つくし、僕は見ませんので関係ないです(いつも通り、テレビの地上波ばかり見てます。「有吉の壁」の大喜利は最高!)。ここのURLリンクしちゃって良いですから。
あくまで僕の目的は、誰かや何かを殺したり生かしたりする事ではなく、有限時間では言い切れなかった自分の考えを言いたいのと、その発言がライト誘導されるに至ったを経緯(バックヤード)を全て書いてしまう事で、全ラジオ局の関係者に「こいつ(菊地)は、取扱注意だ」と云うブラックリストに載せて頂いて、もし僕をラジオのマイク前に立たせたいんだったら、それは引退した人間を現場に引きずり戻すわけですから、それ相応のリスクは背負わないと(ギャラとか、前室のソファーの大きさとか)、と、思わせたいわけですね笑。わははははアメリカ人みたい!
と云うわけで「番組テーマ曲制作のオファーを受けた」段階から、全て書きます。
始まる前から結論を先に書きますが、私怨なんて誰にもどこにもないですよ~。あるとしたら、「日本維新の会」の前に、おそらく自分の小説から取った「太陽の党」って云う、あの、岡本太郎の「太陽の塔」と、発音上全く一緒な笑、つまり極めてメンド臭くて自分勝手な=マッチョチンポコな政党名を掲げていた、石原チン太郎くんだけですね。
んで、始める前からナンなんですけど、今皆さん、前よりは文章読むお時間、あるでしょ?(ないか笑)そしたら、先にコレ(ネット連載最新)
とコレ(すげえ昔に出た本。ここから全てが始まってる)
をお読み頂いてから以下に進むと、とってもスムースオペレーターでーす。
コメント
コメントを書くラジオのゲスト出演(アーカイブで)拝聴しました。『粋な夜電波』が放送されていたことのファンとしての意義の1つは、菊地さんがホスト仕事とゲスト仕事をきちんと分けて、それぞれをきちんとした質で行っていることを知ることができたことです(料理屋の倅として、幼い頃から現場に出ていたのだからそんなのは当たり前なことだ。という話だとは思いますが)。(僕個人的には、お恥ずかしい話、それまでそういった仕事の分類が頭に無く(笑)、ですのでたいへん勉強になりました。そういったものの見方をすると、近年のタモリさん(というか僕は『いいとも』以降の氏しか存じ上げていないのですが)がホスト仕事ばかりをされており、ゲストとしてのタモリ、がレアなことである。なども考えることが出来て面白いです。ともかく、ホストの身分、ゲストの身分にそれぞれの立ち振る舞いというものがあることを知ることができたのは、知的な嬉しさがあり、今回ご出演された番組の主題にアナロジーすると、もてなす/もてなされる際の立ち振る舞い、それ自体が男社会のなかでの教えのようなものでした。)
菊地さんの夜電波でのホスト仕事として、アナウンサーや、各分野の識者、音楽関連での共演者、尊敬されておられる筒井康隆さんを迎えられた回があり、あの田中康夫さんがゲストとして番組に出演された際にもきちんとホストの役目を果たされていたことは素晴らしく、番組もそのどれもが面白かったです(ゲストに来られたかたも気分良かったのでは?なんて想像しております)。
一方で菊地さんのゲスト仕事としてのお仕事も拝聴していてとても面白く、ゲストというのはほんの少しワイルドに……というか、ほんの少しだけホストの意に反することをするというかクロストークがあったほうが良いというか、その番組の普段からのほんの少しの逸脱があったほうが番組自体が面白くなり、それが良質のゲストの役割であり、菊地さんはそれをされておられるのだなぁ、と感じながら聞いております(この”ほんの少し”というのがポイントなのでは?と想像しております。菊地さんが今回お書きになられた、無駄に尖った毒舌家キャラじゃない、というものでしょうか)。(また、それに対してどう展開していくのか、というのもホストの実力であって、各番組のホストのその実力もわかってしまうのも面白いのですが(笑))
という聴きかたで今回ゲスト出演された番組を聞いても、やはりゲスト仕事もしっかりされておられ、ファンとして面白かったです(今年に入ってご出演された福岡FMの番組も、ウェブラジオの番組も同様に。ホストとして深町健二郎さんはしっかりされておられると感じました)。
今回の記事では作曲されたテーマ曲に関しての解説を書いてくださったこともとても嬉しく、またとても勉強になり、楽しいです(笑)。曲自体も素晴らしいです。僕はこのラジオ番組のテーマ曲を聴いたのがこの回が初めてでしたので、飛ぶ教室か……教室か……開幕であのbellが鳴ったらどうしよう……。などと思っていたらそうはならず、爽やかなファンファーレが鳴り、その後の浮遊感、でも朝ではない、というところで番組名と曲調が掛かっていることや、夜のラジオ番組の雰囲気(でも”いわゆるFM”でも民放のサブカル的な夜でもない)をつかんでいるなぁ、ソプラノのアドリブも良いなぁ、あぁモードなのか、と思ったところで予兆のあとにきちんとベルが鳴り締りがよくそして終わりへ、と、ラジオ番組のテーマ曲として素晴らしいなぁと、聞き終わって手を叩きました。その実際のところをお教えくださり嬉しく、それでも曲にかかっている魔法は解けていませんし、感動しております。
菊地さんこんにちは。今更になって周りの人達(こちらからの一方的ではありますが菊地さんも含めて)とこうやって生存確認できる日々の有り難さを改めて感じております。その簡易さにおいてはネットやSNSも悪くないなと思ったり。
(
テーマ曲の作成過程のお話がめちゃくちゃ面白いので(楽曲分析ももちろん先方の要望を整理してピックアップしていくやり取りも目から鱗でした)、
カット騒動?でやって来る初見さんがこぞってゼロ文に流れ込んでいけばいいのに。という一心でTwitterに拡散して煽ってやろうかとも思いました笑。
NHKが都政に忖度だって!?とイライラした方々をまとめて外出自粛お家時間の沼(なんせゼロ文だけでもめちゃめちゃボリーュムありますし)へ引きずり込むいい手ですよ!ちょっと振り回されちゃった菊地さんは気の毒ですが笑。
三密
なぜ日本人は三にまとめたがりますかね。
三密揃わないと大丈夫みたいな誤解は、菊地さんが兼ねてよりご指摘の三本の矢を誤用した人の責任も少なくないと思います。
「有吉の壁」にキンプリ平野さん出てましたね。歌が上手い!近年の男性シンガーは声が高いですね。「ロンハー」や壁の有吉さんも好きですが、有吉eeeでボケまくって食べまくっている有吉さん見て和み、ペン大の復習に励んでいる、コヴィットの日々です。
>>1
>>1
まあ何つうか、ライトレフトの生放送って、何だかすごくやりたがるんですよねえ局が。夜電波も、おそらく僕それやらせたかったんですよね。一番難しいスタイルだと思いますけどね。だから「とにかく収録で」「時事ネタは斬らない」というアンチライトレフト貫きましたけどね。ラジオ局の方は、新しいエンターテインメントの方法を模索してると思えないですよね。まあそこがラジオの魅力なんでしょうか。オチを潰された時は本気でびっくりしました笑。
ボス君がロンハー見てるとはにわかには信じられませんが笑、ODもバイト先のサイゼが休みになっちゃったし、二人して暇なんでしょうね笑。インスタライブは再放送?しないそうです、ボス君がカラオケでやり過ぎたのを反省してるみたいですね笑。
>>2
細かく見て(聴いて)頂いてありがとうございます。僕はネット批判ばっかりしてますが、勿論これは状況主義的な側面もあり、ネットの有効性は各々が見つけて、核エネルギーみたいに平和利用すれば良いと思うんですが、やっぱネット、特にSNSが失ってしまうのは「客」と「店」、「招く」と「招かれる」関係だと思いますし、「喧嘩」の概念も「炎上」(=火災)に取って代わられるように、敷居が液状化してしまうことで、礼儀作法に代表される古き良き慣習がなくなりますよね。
保育園に似てます本当に。
僕はもうおじさんなので、客人としての振る舞い方、店主、店員としての振る舞いが体に染み付いているので、それがそのまま仕事に反映されているだけで、客人はやっぱり、家主の度量を測るような行為を、ちょっとだけしないと面白くないですし、それを家主は引き出すべきなのね。他の人は知りませんが、僕はそう心がけています。
論争の液状化も同じで、「炎上」という概念で全ての論戦を収納してしまうと、「喧嘩」ではなく、火災になってしまう。火事も喧嘩も江戸の花ですが、火事と喧嘩は漫画とゲームぐらいは違うと思います。喧嘩は基本的に売買なので、誰が売って、誰が買ったか、買わなかったか、という交換が面白いわけですが、SNSの論争は、ただ衆目が炎のエネルギーに浸るだけですよね。ただまあ、今や戦争も液状化してるので、ネットは人類を牽引しているのではなく、これではまるでトートロジーですが、ネットは人類が生み出したのかもしれませんね(ウイルスを生物兵器とする妄想論の構造ですよね。僕はウイルスは人間が生み出したのではなく、人間の好敵手として神が生み出したとしか思えません)。
>>3
まるみさんこんにちは。まあ、生存確認はトーキングドラムでも出来ますし笑、僕がたまに「あの人、どうしてるだろう?」と思って、慣れぬ検索をかけても、等々見つからなかったりします(とんでもない人がTwitterやってたりもしますが笑)。
オファーを受け、オーダーをやりとして製品を作るのは、製造業としては当たり前のことなんですが笑、やっぱ音楽は神格化されているというか、当該のNHKスタッフも、僕を大先生みたいに扱うので、そこから生じるリスクは受けなければ。という感じです。僕が「これがフラットでスマートな、普通の商談(音楽性に関する)だ」と思えた現場はルパンとガンダムだけです。やはりでかい商売はちゃんとしてますね。
今回程度の振り回されは全然大したことないです笑。つまり、「全部書いちゃっても大丈夫なセーフティ案件」なので、ですからむしろ、音楽家、、、というか、僕が。とすべきでしょうが、一切口にしない、何も話さない現場。の方が、何かあるかも?と思うべきですよね笑。警察みたいに考えれば笑。
>>4
日本人は3が好きというより、奇数が好きです。ゴレンジャーの元ネタである白波五人男とか、俳句や短歌の韻律みたいに5と7で区切るとか(四天王。という概念は、中国からの直輸入性が強いと思います)。三密は壇蜜と似てますがネタにしては古いので、そこがちょっと萎える言葉ですが笑、ご指摘の通り、本来、揃わないと意味がないスリーカードを別売りできる感覚にしちゃったのは、ベーアの責任ですよね。みんなベーアの悪口言うのは、ベーアがお父さんの人が多いからですよ。緊急事態宣言の、「ガム噛みながら喋るんじゃねえ笑」と云う、総理大臣とはとても思えないカミカミぶりは、父としてのカリスマに満ちてましたね笑。
>>5
水原弘を見習えと言いたいですね笑。ウソ。平野くんは最高ですが、岸くんのがもっと小さい!!しかも歌が5倍ぐらい上手いのです(すんげえ信者的な物言い笑)。
ただ、現在オンエアされているあらゆるバラエティは、僕の見る限り、2月収録分ぐらいの物もあり、やがては尽きます。その時が、テレビの持つ永続性にヒビが入る時ですね。僕は恐慌は(個人的にではなく、社会的な視点で)ウイルスよりかなり怖いなと思っていますが(死者数の桁が違うと思いますし)、テレビのバラエティが収録ストック尽きた時に、タレントを含める全テレビマンに本当に頑張って欲しいです(もう地上波には出れないので笑、勢い視点が他人事でヒロイックに傾きますが笑)。
>>7
僕が物事をよく見たり聞いたりする力を身に着けることが出来た(もちろん、先人にはまだまだ追いつけませんが)のは菊地さんの諸作品・諸活動があるからです。ありがとうございます。
インターネットというのはその初めにはオタク/エリート的なものでその世界の歩き方がわからない者は容赦なく酷い目に合うという閉じた世界の陰険さもあったものでしたよね(僕もその昔にはそれらの洗礼を受けて、電話回線を海外に勝手につなげられたり、とんでもないグロテスクなものが写っている写真を見せられました(笑))。顔写真や個人情報がネットに出たら一生外を歩けなくなる、くらいにも言われていて。最初のころは敷居は在り……と書いたところで思ったのですが、この時から1度その中には入れた者はもうそこに同化している、液状化の文化が出来ていたんですね。店/客の文化がないというか、客というのは、屋内には招いたけれども他人ではある/屋内には入ったがここは自宅ではない、という認識がしっかりあるものですものね。ネットにおいてギリギリでそれを守る……というか模倣したものとして「ホームページ」なんてものがあって、SNS、という社会を繋ぐと名乗るサービスがその家々の多くと共に主人/客文化を破壊して、液状化に拍車をかけたのだと思います。ドゥルーズが「接続することと同価値に切断することがある」と言っていると最近の色々な本で書いてあったり、それこそ接続/切断はフロイドの黄金のアイデアの1つですが、ほんとうにこの接続/切断という意識はSNSを利用する(もはや”SNSを利用する”という概念すら希薄になっていますが)うえで大切ですね。(そうしないと接続されていることに気が付かない『マトリックス』になってしまうというか、あの映画は接続された世界で、自分が接続させられていたことに気が付いた者が、接続した世界では一番の力を持つ、という寓話としてみると面白いなぁといま思いました。そんなのはそれを鎖に変えて『スパルタカス』の時代から変わっていないという話だとも思うんですが。)
ネット社会にもその時々で特有の言い回しや挨拶の仕方があって、でもそれが古来は2ちゃんねるの用語やいまではTwitter独特のいい回しとか、すべて利用者を液状化するべく機能していますね(僕は大きな顔をしてやっているあれが嫌いで嫌いで。陰とかコスプレで行われてるのは好きなんですが)。挨拶や作法の機能が、高倉健主演の映画で池部良が切っていた仁義なんかとは逆になっています(作中の最後で高倉と池部は最大の液状化を起こすわけですが。でもあれは延々に客人である者との液状化だから感動するんですね)。
火事と喧嘩は江戸の華、とはダブルミーニングである。とはこれも菊地さんが確かお書きになっていて、その当時うおぁ面白い、と調べたら、消防歴史博物館みたいなところが出した本にだけはそれが書いてあって、感心しました。いまでは「喧嘩している」とか「喧嘩だ!」とはあまり言わなくも聞かなくもなりました。あっても夫婦とか恋人間のそれだけです。いまやネット以外の場所で起こった諍いですら炎上です。でも喧嘩はこれからは凄くいいですね。「〇〇と〇〇が炎上!」なんかより「〇〇と〇〇が喧嘩!」のほうが圧倒的に面白いです。喧嘩、というある時期から賭場や祭りと強く関連するようになった言葉と行為には、仰る通りの売買と勝敗の明確さの価値があります。火事と喧嘩は江戸の華、の火消しは鎮火のために喧嘩をしていたのに、炎上では誰もが被害者になってしまう(大抵の場合で、本当は関係すらないのに)という液状化が起こっていますね。火事と喧嘩~はやっぱ行為が派手なのはもちろん、その行為が派手でなくてはなしえないこと、そして最後には場を鎮めるからこそ華だったのでしょうね。
ネットは人類が生み出した、というのはカイヨワの戦争論を参照して仰る通りだと思いますし、バタイユの消尽論を経由して、DC/PRGのミラーボール理論の大切さがよくわかります。液状化には疑似/演技があり得ませんし、きちんとした設定もフォームもなく、炎上はするのに、喧嘩もありませんから。そしてそのうえでSNSを愛している者は、菊地さんのSNS批判を有益なものとして聞けばいいのですが、そうなっていないのは、多くの者がSNSが実はつらいというか、依存症になっているからなのでしょうね。