前回のコメ欄にも書いたが、田原総一郎が完全に蘇生したのには感動に近いものがあった。その名も「コロナとオリンピック」。このテーマの前に、田原は全身の血液をスイスの病院で取り替えたぐらいの若返りを見せた。眼光が60年代に戻っていたのは凄い。あれを本当に医療でやったら何億かかかるだろう。

 

 最近、らしくもないのだが外山恒一の「政治活動入門」を読んで(どういうわけだが、1年前ぐらいからゲラが届いていて、ずっと放置していたのだが、先日灰皿をベットに落として「うわー!」とか言って騒いでる間に、気がつくと手にとっていて、読み始めたら止まらなくなった)、かなり面白かったし、田原総一郎の蘇生に対する感動は諧謔なしだし、え何オレ、還暦過ぎたら政治の話とかするようになるの?(IKKOのモノマネで)それって最悪~笑、などと口に出しながらベッドの上の灰を手のひらで落とすものの、どんどん広がってしまう。仕方がないので、口でフーフー吹いた。

 

 ドイツのジムナスティの選手が「アスリーテストを性的な目線で見られることにアゲインストするため」レオタードをやめてユニタード(ユニタードは正しくはレオタードの類語ではない、レオタードの語源はフランスのサーカス曲芸師、レオタール=男性が着ていたコスチュームから来た、つまり人名であって、「レオ」と「ユニ」には対応関係はない)にして、それがフェミニズムだ、みたいな一銭の意味もない事(「レオタードのが良い」と言っているのではない。どっちだって同じだ。そもそもドイツは過去、この問題に関して考えすぎた挙句にこじらせ、裸体運動まで追求した国で、僕が知る限り、世界で最もフェティッシュカルチャーのエグさとドギツさと広さを誇る国である。フェミニズムは大いに結構で、アスリーテストの肉体をどう観るのか?という問題はとても有意義だと思うが、この件に関してはドイツの体操界が今更何言ってんだ笑、50年おきに前行性健忘を起こすのか笑、としか言えない)よりも、外山によるファシズムの定義の方が遥かに興奮する。