弱いなら弱いままで。
ども、きょうは何を書こうか、書くべきか、ちょっと迷ったのだけれど、「オタク」に関する昔話をしておこうと思います。
ぼくは1978年生まれで、今年もう44歳になるのだけれど(しくしく)、オタクとしてはいわゆる「第二世代」と「第三世代」の間くらいになります。
その上の「第一世代」は1950年代後半から60年代前半くらいの出生の人たちを指します。具体的にいうと山本弘さんが1956年生まれ、唐沢俊一さんと岡田斗司夫さんが1958年生まれ、庵野秀明さんが1960年生まれ。若い頃に『宇宙戦艦ヤマト』を見て育った世代ですね。
ひと口に「オタク」といっても、ここら辺の人たちは現代の若い「ライトオタク」たちとはまったく異質な考え方をしているように見えます。
どういうことかというと、この時代のオタクは(かれらが若い頃にはその言葉もまだ存在していなかったわけだけれど)、「いい歳の大人になっても子供向けのアニメを見たりしている変わり者」だったのです。
現在ではアニメやマンガの市場はきわめて成熟かつ多様化し、大人がアニメを見ていても、そこまで変わったことではなくなりつつあるといって良いでしょう。
劇場版の『鬼滅の刃』あたりに至っては、まったく興味がないという人のほうが変わり者扱いされるかもしれないくらい。しかし、まるで昔は違ったわけです。
もちろん、当時にも相対的に大人向けの作品はいくらでもあったには違いありませんが、この手のサブカルチャーに対する蔑視は現在とは比較にならないほど強かったことでしょう。
で、そういう状況にあっては、オタクは自分の趣味に対してどういう態度を取るか決定しなければならなかった。
いまの若いアニメオタクはそのほとんどが「なぜアニメを見るのか」なんてろくろく考えたこともないに違いないけれど、当時は考えなければならない状況だったのですね。
そこで、オタクたちは趣味についての態度を考え、「顕教」派と「密教」派に分かれたのです。
何だそりゃと思われるかもしれませんが、「オタク顕教」と「オタク密教」とは、竹熊健太郎さんが『私とハルマゲドン』というオウム真理教とオタクの関連性を語った本のなかで紹介している概念です。
前者は「あえて」「わざと」「ネタで」オタクであることを選んでいる態度で、それに対して後者は「本気で」「ベタに」オタクである姿勢を指します。
つまり前者の人は「なぜいい歳をして子供向けのアニメを見るのか?」という問いに対し、「いやあ、子供向けの幼稚な内容であることはわかっているんだけれど、「わざと」そういう作品を選んで見ているんだよ」という風に答える人であり、後者の人はそう訊かれたら突然に早口でその作品の魅力を語りだすようなタイプの人であるといえるでしょう。
竹熊さんはある種、オタク密教的なネタ宗教として見られていたオウム真理教がとんでもない大事件を起こした経緯を問題視するのだけれど、それはまあ今回の話の筋とは関係ないので措いておくとしましょう。
で、これは他の本にまたがる内容になるのだけれど、かれは当時、『エヴァ』が話題になっていた庵野秀明を「顕教徒」の代表的存在とみなし、しかも庵野さんが所属していたGAINAXを基本的には「密教徒」の集団であると語っています。
そして、そこからある衝撃的な結論を導き出すわけです。つまり、庵野秀明はGAINAXで「ネタではなくベタで子供向けアニメを好きな奴」としてバカにされていた、と。
これはあくまで竹熊さんの主観的な観測にもとづく意見なので、ほんとうにそうだったかはわからない。じっさいのところは『アオイホノオ』とかもろもろ読んで推測するしかないところなのでしょうが、この見解は理解できると思う。
何といってもGAINAXは岡田斗司夫さんが社長をやっていたような会社ですし。いまとなっては新たに読む者もほとんどいないであろう『オタク学入門』とか読むとはっきりわかるけれど、岡田さんの態度はあきらかに密教的なんですよね。
というか、竹熊さんが「オタク密教」という概念を考えたとき、初めから岡田さんのことを想定していたのではないかと思う。
そしてまた、当時のGAINAXは、その岡田さんのような人たちがたくさんいた会社だったと、で、庵野さんはそのなかで特殊な存在でバカにされていたんだったと、竹熊さんはそういうわけです。
繰り返しますが、どこまでほんとうなのかはわかりません。ただ、色々と伝聞情報をつなぎ合わせると「そういうことがあってもおかしくないかなあ」とは思う。
いまとなっては日本を代表する天才映画監督として世界的に知られる庵野さんだけれど、当時はまだ若かったし、たぶんいまよりもっととがっていただろうから、GAINAXでもかなり「変な奴」として見られていたとしてもおかしくない。
何より、庵野さんはあきらかに「ベタに」「顕教的に」子供っぽいアニメ、あるいは「メカと美少女」といったオタク的な文化を好きなわけです。
もちろん、「オタク密教」的な人も「メカと美少女」が好きな気持ちはあるんですよ。ただ、「密教徒」はその気持ちを封印し、メタ的な態度で作品に接する。それに対し、「顕教徒」はどこまでもベタに作品を愛しているのです。
で、おそらく庵野さんはその「ベタに子供っぽい作品を好きな自分」をどう処理するか悩んだのだのでしょう。『エヴァ』という作品と、その頃の庵野さんのオタクに対する批判的な態度は、ここら辺の事情を頭に入れておかないと理解できません。
庵野さんのオタクに対する批判は、まず何よりも自己批判であったと見るべきなのです。
『エヴァ』直撃世代のぼくは、『エヴァ』そのものというよりも庵野さんの「顕教」的な生きかたにものすごく影響されています。
決して道化の仮面をかぶってシニカルに他人を笑い飛ばし、自分を人よりひとつ上のレベルに置いて自己防衛したりすることなく、「趣味に対して徹底的に真剣であるべし」というぼくの信条は、庵野さんの影響を直接的に受けている。
もちろん、庵野さんもまたその上の世代(「オタク第ゼロ世代」)の宮崎駿さんあたりと比べると色々屈折しているということは、それこそ竹熊さんがくわしく述べているとおりなのだけれど、それでも庵野さんは「いつまで経っても子供っぽい自分」に対して徹底して向き合ったのだと思っています。
その結果、テレビシリーズ版の『エヴァ』はあのようなSF設定もマクロ状況もすべて放り出し「男子中学生の悩み」にフォーカスした内容となった。
それは「密教徒」からすれば「失敗作」として笑い飛ばすべきことなのだけれど、『エヴァ』はあからさまにそれでは済まない作品だった。
その結果、岡田さんは『エヴァ』や『エヴァ』ファンを笑い飛ばそうとして竹熊さんと喧嘩別れする事件を起こしたりするわけなのですが、GAINAXがその後どういう顛末をたどったかを思うと、非常に感慨深いものがあります。
結局、GAINAXでいちばん大人になれたのは「子供っぽい自分」を直視する勇気を持っていた庵野さんであって、GAINAXに残った人たちはまったく大人になれなかった、あるいは「ダメな大人」になってしまったとも思えるからです。うーん、諸行無常。
ただ、まあ、こういう話は、いまとなってはほんとにただのむかし話ですよね。いまの十代に「オタク密教」なんて概念を説明したところで絶対にわかってもらえないでしょう。昔は遠くなりにけり。
そのことを踏まえた上でもうちょっと付け加えると、ぼくがつくづく面白いと思うのが山本弘さんという人で、山本さんの態度はひと口に「密教」とも「顕教」ともいいがたいものがある。
まあ、あきらかにベタに作品を好きではあるから「顕教徒」には違いないのだろうけれど、山本さんはアニメやSF小説が子供っぽい「にもかかわらず」好きなのではなく、子供っぽい「からこそ」好きだと主張するわけです。
この違い、わかりますかね。庵野さんはおそらく「いつまでも子供っぽいものを好きな自分」に悩んだのだと思うけれど、山本さんは悩まなかったでしょう。それどころか「子供っぽいものが好きな自分」を誇りに思っていたものと思われます。
ただ、それ自体は全然良いものの、その誇り方がどうにも歪んでいるのですよね。
たとえば小説『サーラの冒険』第一巻のあとがきで、山本さんは自分には音楽がわからないと述べた上で、このように書いています。
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