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【無料記事】同人誌『戦場感覚』第八章「プロキオン――遙かなる中原へ」。(9630文字)
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【無料記事】同人誌『戦場感覚』第八章「プロキオン――遙かなる中原へ」。(9630文字)

2013-05-12 18:37
     この記事から冒頭に要約なり紹介文を書いていこうかと思います。さて、一日あいだが空いてしまいましたが、『戦場感覚』の第八章をお送りします。この本は第十章あたりから本題に入るので、まだ助走段階なんですが、どうか読んでみてくださいませ。

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     第八駅「プロキオン――遙かなる中原へ」

     1.『グイン・サーガ』解読(1)。

     風が吹く。

     吹き抜ける。

     それは緑の草原をそよがせ、赤い街道の木々を揺らし、中原から辺境、そのまた彼方のノスフェラスへとかけ抜けてゆく。

     その風が語り伝える物語、ひとりの豹頭の剣士の伝説を、ひとは、かれの名前を冠し、『グイン・サーガ』と呼ぶ。

     わたしたちの長い「銀河鉄道の旅」もついに第八駅にまでたどり着いた。この章ではひとりの作家を取り上げ、その作品を一望して全体像を確認することとしたいと思う。その作家とは、世界一の長大さを誇ることで知られる『グイン・サーガ』の語りべ、栗本薫である。

     すでに逝去から2年が経つが、いまなお新刊が刊行されつづけるなど、その存在感は薄れていない。じつはわたしが「戦場感覚」というとき、真っ先に思い浮かぶのはこの作家なのである。

     その作品はきわめて多数で、また様々なジャンルにまたがっているため、全体像を把握することはたやすくないが、戦場感覚について語るとき、この作家を除くことはできない。

     なぜなら、栗本薫の生涯のテーマとは、わたしがいうところのグランドテーマ、「戦場である世界でいかに生き抜くか」にほかならないからである。ひとつ『グイン・サーガ』だけではなく、数々のSFも、ミステリも、ハードボイルドも、そしてボーイズ・ラブ作品にいたるまで、彼女の作品はすべて、何かしらグランドテーマとかかわっている。
     
    その壮大な世界を語りきるには、一章ではあまりに短すぎるが、何とかわかりやすくまとめてみるとしよう。

     さて、栗本薫の仕事が多岐にわたることは事実だが、自他ともに認める最大最高の傑作は『グイン・サーガ』である。『グイン・サーガ』の主人公は、中原と呼ばれる中世的文明世界に忽然とあらわれた豹頭の超戦士グインだ。

     かれは隣国モンゴールによって亡ぼされたパロ王国の王子レムス、王女リンダ、〈災いを呼ぶ男〉を名のる傭兵イシュトヴァーンらと出逢い、冒険をくりひろげてゆく。

     いわゆるヒロイックファンタジーであるが、物語が進むにつれ、その内容は単なる類型的な冒険ファンタジーには収まらないものになってゆく。各登場人物の実存をめぐる問題が表面化してくるのである。

     『グイン・サーガ』の登場人物は、最重要なものだけでも両手の指に余るほどあるが、そのなかでも主役級と呼べるのがグインであり、イシュトヴァーンであり、パロの宰相アルド・ナリスである。

     特にアルド・ナリスはパロにのこされたなぞめいた「古代機械」を通し、中原から「宇宙生成の謎」にまで迫ろうとする。その野心は、パロの王位や中原統一といった次元にとどまるものではなく、宇宙的規模のものなのである。

     しかし、頭脳明晰なナリスもあくまでひとりの人間であるに過ぎず、また大陸の文明の中心である中原にしても、宇宙的規模から見れば辺境の未開の地域であるに過ぎないため、かれはかぎりなく無力である。

     ナリスはときにその無力感に歯噛みしながら「宇宙生成の謎」の答えが眠っているノスフェラスの地へ旅することを願う。が、パロの王子であるかれには、その旅は叶わない。

     長大な『グイン・サーガ』全編を通読してなお、ナリスがいったい何を求めていたのか、その本当のところを理解しなかった読者も少なくないだろう。ナリスは、単なる超科学、超文明の遺産を求めていたわけではない。

     かれが突き詰めて考えようとした謎とは、「自分はいったいなぜここにあるのか」という、形而上学的ともいえる問いであった。そう、かれもまた「世界への違和」と「流刑意識」を抱えたアウトサイダーだったのである。

     ナリスの日常は戦場である。パロ王家にとって厄介者ともいえる存在として生まれたかれにとって、ただ生き抜くというだけのことも決してたやすいことではなかった。

     その戦いのプロセスのなかで、自分はなぜここに自分として生まれたのか。なぜ、ほかのだれかではなく、アルド・ナリスとして生を受け、戦いつづけなければならないのか、という究極の問いはふくらんでいったであろう。

     なぜこれほどまでに辛く、苦しく、孤独な、地獄のような世界で生きていかなければならないのか。なぜ運命の神ヤーンは自分にこの運命を与え、ほかのものには異なる運命を与えたのか――答えのない問い。しかし、かれは問わずにいられなかった。神へ、世界へ、「なぜだ!」と。

     ナリスにとって、地上はまさに流刑地にほかならなかった。自分がいるべき「真世界」はほかにある――かれもまた、戦場感覚者がしばしば感じるあの想いを抱えていた。かれは楽園を追われた堕天使の哀しみを知っていた。そして、未開の前近代社会において、その哀しみを共有しえるものはだれもいなかったのである。

     ナリスが特異なのは、その流刑意識の一方で、美貌と天才に恵まれた自分へのプライドを保ちつづけていたことである。かれは人々を見下し、一顧だにしなかった。そして、それでいて、だれよりも深くかれらを愛しているかのように見せかけるという分裂を生きていた。否。その分裂そのものがアルド・ナリスであった。

     かれは何重もの仮面をかぶり、しばしば「仮面の下の仮面」を素顔と思わせることでひとを篭絡していった。かれはいくつものその場面によって人格を使いこなす現代人だったのである。

     それでは、そうまでして宮廷という名の戦場を生き抜いたアルド・ナリスの本当の素顔とは何だったのか。それは、寂しさにすすり泣くひとりの子供であった。たったひとり、突然に戦場に放り出され、すすり泣きながらもあらゆる術策をもって生きのころうとした子供であったのだ。

     2.『グイン・サーガ』解読(2)。

     一方、ナリスとは違った意味での戦場を生きているのがイシュトヴァーンである。かれはヴァラキアの下町に生み捨てられ、その後、その町の娼婦や博徒たちに育てられて成長していく。そして16歳でヴァラキアを出、〈紅の傭兵〉、〈災いを呼ぶ男〉と名のり、世界に波乱を巻き起こしてゆくことになる。

     かれのただひとつの夢は「王になること」。下町の孤児にはあまりに分不相応なこの野心が、かれを血まみれの狂王と呼ばれる道へ導いてゆく。

     天才ナリスと比べるとイシュトヴァーンははっきりと「凡人」である。かれには宇宙だの真理だのといった話は無縁だ。しかし、それでいてかれもまたヤーンに選ばれた人間であることに変わりはない。ただ、かれの「戦い」は、より地上的、現世的であるという違いがあるだけである。

     凡夫たちへの優越感に縛られていたナリスとは対照的に、イシュトヴァーンのモチベーションは劣等感にある。王になるという壮大な夢を見ながら、しかし、現実には単なる一孤児であるに過ぎないかれは、自分の才能と美貌を頼みに思えば思うほど、惨めさに囚われた。

     おなじ人間として生まれながら、なぜかれはかくも花やかにあり、われはかくも惨めにあるのか、その消せない疑問こそが、イシュトヴァーンを駆りたてたものである。

     ひっきょう、かれもまた、ナリスとは異なるかたちで、運命に対して「なぜだ」と問い詰めているのだ。ナリスとイシュトヴァーンだけではない。この物語に登場する人物の大半が、その生きざまを通じて、運命に問いかけている、なぜだ、なぜなのだ、と。

     『グイン・サーガ』の魅力的な登場人物は数かぎりない。パロの王子にして吟遊詩人のマリウス、魔道師ヴァレリウス、黒太子スカール、〈光の公女〉アムネリス、レムス、リンダ、オクタヴィア、獅子心皇帝アキレウス、ヴァラキアのヨナ、サウル老帝、〈闇の司祭〉グラチウス、〈ドールに追われる男〉イェライシャ、ミアイル公子――。

     かれらに共通しているのは、それぞれかたちは異なるながら、ひとりで重い運命を背負っているということである。

     かれらの大半は孤児である。栗本薫は法や家族や国家、法や倫理といったものを信じない。否。法や倫理がひとを守ってくれるということを信じない。彼女にとって、世界はどこまでも弱肉強食、覇権を巡る戦いが続くバトルロイヤルの戦場である。

     それは現代日本が舞台の作品でも変わらない。『終わりのないラブ・ソング』の主人公双葉は、その美貌から、少年院でレイプされつづける。これを、趣味的な描写と見てはならない。

     「少年院」という空間は、『グイン・サーガ』における「中原」とパラレルである。栗本は、世界の戦場性が端的に表れる舞台として、「中原」や「少年院」を選んでいるに過ぎない。それを現実の少年院と比べてリアリティを云々することほどばかばかしいことはない。すべては現実を抽象化し、その本質を取り出すことで設定された舞台なのである。
     
    『グイン・サーガ』にしても、問題をよりわかりやすくするために中世的文明世界が選ばれている。ひとがひとであるかぎり、グランドルールはどんな世界でも変わらない。いかなる世界であっても、ひとが暮らすところは戦場なのだ。

     そして、いつ果てるともなく続く、孤独な戦い――それは、「不信」という病をともなっている。ひとが信じられなくなるという、病。

     それはあまりにも当然のことだ。なぜなら、たやすくひとを信じれば、いつ裏切られるともわからぬのだから。そうして、裏切られたら最後、待つものは死だ。だから、ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、物語が進むにつれ、ひとを信じることができなくなっていたのだ。

     ナリスは初めから陰湿なパロ宮廷に育ち、人々を「利益」で操ることによって生きのびてきた男であった。しかし、イシュトヴァーンは初め、明朗快活な若者である。

     ほら吹きで、いいかげんで、しかしだれもが好きにならずにはいられないような、壮大な夢を抱き、しかしその夢の大きさ、果てしなさに打ちのめされつつある若者。それが、まさにその夢、その野心によって追いつめられていくプロセスは、残酷だ。

     一介の傭兵からモンゴールの将軍へ、さらにはゴーラの国王へと、地位が高くなり、権力が大きくなるほどに、イシュトヴァーンは変貌してゆく。

     やがてかれは「不信」の檻に囚われる。だれも信じることはできない。信じたら最後、裏切られ、見捨てられる。もし信じられるものがあるとすれば、それは「利益」によってつながった人間だけだ。かれはいまはもうただ「利」しか信じることができないのである。

     わたしたちは第九駅で、これとよく似た「不信」のかたちを見ることになる。山本周五郎の名作『さぶ』における、栄二のさぶに対する「不信」である。

     この「不信」の檻を乗り越えることはむずかしい。理性では、信じる根拠がないものを、それでもなお信じること。己のいのちを、捨て去ることになるかもしれない賭け。

     しかし、一生をこの「不信」の牢獄のなかで生きてきたアルド・ナリスは、あるとき、おずおずと、子供がそっと手をさしのべるように、ひとを信じることをおぼえる。その結果は、かれにとって信じられぬものであった。何の「利」も差し出さなくても、かれに従うというものが大勢あらわれたのだ。あなたを愛しています、わが王よ、と
     ナリスはいう。その無償の「愛」と「奉仕」に対して、それを受け取る側ができることがたったひとつだけある。それは信じることだ。そう、この世には受け取ることでしか贈れない贈り物があり、それは、「信頼」というのだ。ただ、信じること。それが、唯一の返礼なのだと。

     かつての「知の怪物」アルド・ナリスからは考えられない発言である。ただ信じること。そのことによってしか見えてこないものもあるのだ、と。

     3.名探偵伊集院大介。

     栗本薫は作家としてヒロイック・ファンタジーからポルノグラフィにいたるまで、ありとあらゆるジャンルを書きつくした。絶後であるかはともかく、空前の作業ではあっただろう。

     特にある種の特殊技能が要求される本格推理の世界において『絃の聖域』という名作をのこしていることは注目にあたいする。『絃の聖域』。伝統芸能の名家に巻き起こった連続殺人事件を扱った長編だ。日本推理小説史に冠絶する名作である。

     そしてこの作品でさっそうと登場するのが、栗本薫の名探偵、伊集院大介だ。ひょうひょうとして掴みどころがなく、それでいて何ともやさしくあたたかいこの探偵は、わたしにとっても最も好きな探偵のひとりである。

     『グイン・サーガ』がハワードの『コナン』シリーズへのオマージュであったように、伊集院大介ものは横溝正史の金田一耕助ものへのオマージュだ。栗本は自分の好きなあらゆる作品を自家薬籠中のものとしてしまう模倣の天才であった。

     しかし、当然ながら、それは単なる横溝正史フォロワーに終わるものではない。『絃の聖域』には、栗本薫のオリジナリティが充溢している。芸術至上主義である。

     『絃の聖域』の舞台は、ある三味線の名家。この家を舞台にして、凄惨な連続殺人事件が巻き起こる。そうしてそれは一族がほとんど全滅するまで続く。その果てに見えてくるもの、それはすべてを操るある真犯人の姿なのであるが、大介がその真犯人に行きついたあとには、凡庸なミステリにはない、骨太のカタルシスが待っている。

     ひとを狂わせる「芸」という「道」の、その深遠さ、過酷さ。第三駅でわたしは『どんちゃんがきゅ~』を取り上げたが、『絃の聖域』と『どんちゃんがきゅ~』は、まさに「芸」に心狂わされたものたちの、その凄絶を克明に描いているという一点で、同じジャンルに属するだろう。

     この作品で、あるいはほかの作品で、伊集院大介が見せる心優しさは胸を打つものがある。大介はイシュトヴァーンやナリスのように自ら物語を生きる人物ではない。かれは「傍観者」であり、精神的な子供が主役となる栗本の世界にあって、数少ない本物の大人である。

     かれの役割は繊細にすぎる「子供たち」を守り、支え、その人生をより良い方向へ導くことだ。非情なこの世界で、かれもいつもうまくやれるとはかぎらない。たとえば『猫目石』で、大介の介入は無力に終わる。

     しかし、大介の介入によって、多くの人々が救われてきた。そのままなら悲劇へと向かうばかりだった物語が、ハッピーエンドに終わることも少なくない。異常に悲劇的結末が多い栗本の作品であるが、伊集院大介がかかわった事件は、案外と幸福な結末を見る。そういう意味では、かれは全く稀有なキャラクターである。

     その特質は『絃の聖域』に続く『優しい密室』に表れている。この事件で、大介は、作者本人ともいえる少女を救い、導いている。『優しい密室』ではじっさいにそのような役どころで出てくるのだが、伊集院大介は「探偵」というよりもむしろ「教師」なのである。優しい、穏やかな、しかし神のように洞察力に満ちた「教師」。

     かれは人間を愛し、その弱さと愚かしさをも愛し、卑劣な犯罪から弱者たちを守ろうとする。かれは正義というよりもむしろ人間性の使徒である。名探偵としての推理力ならもっと上をゆくものがいくらでもいるに違いないが、しかし、それでもなお、その存在はかけがえがない。

     栗本は生涯で何十作もミステリを書いたが、しかし本格としてのトリックだとかロジックといったものにはまるで興味を示さなかった。江戸川乱歩賞作家であるにもかかわらず。

     彼女にとって大切だったのは、名探偵、怪盗、ちぎられたトランプ、絶海の孤島、車椅子の億万長者、仮面の男、といった本格のファッションであった。そういうところを見ると、栗本薫は論理を捨て、形式を重視する「脱本格」の遠い祖先であったといえるかもしれない。

     伊集院大介シリーズはその後、綾辻行人に影響を与えたという怪作『鬼面の研究』と、二冊の短篇集、切ない恋愛小説の佳編『猫目石』を経て、ついに『天狼星』シリーズにいたる。この『天狼星』で、栗本はついに本格ミステリの殻を脱ぎ捨て、作中に乱歩趣味を横溢させる。

     『天狼星』の中心となるのは狂気の連続殺人をひきおこす〈怪盗シリウス〉である。シリウスは伊集院大介の影である。かれは、アルド・ナリスがそうであったように、自分の手でひとを殺すことはしない。ただ、ひとを操り、殺人事件を起こしてゆくのだけである。

     シリウスはなぜか決して警察権力に捕まることはない。あたかも、「悪」そのもの、「闇」そのものであるかのように、都会の夜に紛れ、神出鬼没をそのままに、暗躍しつづける。かれは乱歩の二十面相がそうであったように不死の存在であり、いつまでも大介のまえに立ちふさがりつづける。

     とうていリアリズム小説とはいえないような『天狼星』であるが、ここにも芸術至上主義は顔を覗かせている。『天狼星』全編を通して、「芸」は「悪」に対抗できる存在として、あるいは「悪」を遥かに凌駕する存在として描かれているのである。

     『天狼星』以降の栗本ミステリには、見るべきものは少ない。パソコン通信を舞台にした『仮面舞踏会』、着物の世界を描いた『女郎蜘蛛』などが佳作として挙げられる程度であろう。

     しかし、わたしにとって伊集院大介と逢えることはいつでも歓びでありつづけた。大介は、栗本の光の面を表すキャラクターである。なるほど、世界は酷烈をきわめる戦場であるかもしれぬ。しかし、伊集院大介はそこにいる。栗本はそういおうとしているようだ。

     大介は決してひとを見捨てない。かれはいつまでも優しくひとを見守ってくれる。かれは人間愛の化身である。そう、わたしが栗本作品を愛読するのは、その小説技術からではない。そこに、人間を愛し、見捨てず、見守りつづけるしずかなまなざしを感じるからなのだ。その精神に比べれば、圧倒的な技術も、ただの化粧であるに過ぎない。

     4.ルールはひとつではない。

     栗本には現代ものも多い。「東京サーガ」と、のちに彼女が呼ぶようになる作品群である。それは伊集院大介ものを含み、さらに巨大な世界を作り出している。

     その中心にあるものは、『翼あるもの』に始まり、『朝日のあたる家』、『ムーン・リヴァー』と続く、森田透を主人公にした物語だ。

     森田透。この人物こそは、ある意味でナリスやイシュトヴァーン以上に、栗本薫らしいキャラクターであるといえる。かれは初めアイドルとしてデビューし、人気を集める。しかし、天才的なカリスマシンガー今西良を中心とするグループのなかで居場所を見いだせずに、グループを辞めてしまう。

     そこからかれの転落は始まる。かれは今西良を上回るほどの美貌の持ち主であるにもかかわらず、なぜか人気を集めることができず、芸能界を出る。そしてそこから先は、金をもつ男女にからだを売って日銭を稼ぐ日々。絵に描いたような転落人生。

     たったひとり、そんなかれをかまってくれた男も、今西良の魔力ともいえる魅力に惹かれ、かれを愛するようになる。透には何ひとつのこらない。何ひとつ。かれには「生きる」ためのモチベーションが致命的に欠けている。だから、かれはどこまでも失敗者であり、敗残者なのである。

     かれは生きることが好きでもないし、生きていたいとも思わない男なのだ。だから、かれはより力のあるものに散々に利用され、陵辱され、利用される。しかし、あるときから、かれのその「無力さ」は周囲の庇護欲をかきたてることになる。運命の転換。

     第三駅で紹介した「下位ルールA」を思い出してほしい。「戦場である世界ではより強いものが生きのこる」。このルールはあたかも自明のものであるように見える。しかし、「世界の理」グランドルールそのものは変えられないし、変えてはならないものであるが、下位ルールはそこから人間が導きだした法則であるに過ぎず、変更することが可能である。

     栗本は「下位ルールA」に代わる「下位ルールB」を生み出した。即ち「戦場である世界ではより美しいものが生きのこる」。

     コペルニクス的転換というべきか。栗本のボーイズ・ラブ作品はこのルールによって戦われるバトルロイヤルである。それは戦場の物語であるという一点において、『グイン・サーガ』や、伊集院大介ものと何も変わらない。ただ、使われているルールが違うだけなのである。この点を理解しないと、栗本の作品を読解することは困難だ。

     「下位ルールA」から「下位ルールB」へのルールの転換を、たとえば栗本の最高傑作のひとつ『終わりのないラブ・ソング』に見えることができる。この作品では、「下位ルールA」において最弱である主人公双葉が、果てしなくレイプされつづけたあげく、「下位ルールB」によってヒエラルキーの頂点に踊り出るという逆転劇が描かれている。

     つまり、「暴力」という戦場において最も弱いものが、「愛」という戦場において勝利者となるわけである。どこまでも「下位ルールA」に従う少年漫画では決してありえないような逆転だ。

     また、「下位ルールB」がありえるということは、「下位ルールC」も、「下位ルールD」も考えられるということである。下位ルールは無限に存在しえる。そして、その無数のルールで戦われるバトルロイヤルの物語こそが、『グイン・サーガ』なのである。

     「少年の物語」とは、戦場感覚者のグランドルール、「この世界は戦場である」に対し、「戦場で生きのこるのはより強いものである」という下位ルールを設定した物語であった。しかし、『グイン・サーガ』ではこの「下位ルールA」は通用しない。否。物語はただそれだけで戦われるわけではない、というべきか。

     『グイン・サーガ』では、あるものは音楽で、あるものは美貌で、あるものは知力で、またあるものは愛で、権力で戦う。世界はたしかに戦場ではあるが、そこにおける戦い方はひとつではない。これこそ、『グイン・サーガ』をまたとなく豊穣な世界にしている秘密だ。

     だから、『グイン・サーガ』と『終わりのないラブソング』の違いは、下位ルールの違いであるに過ぎないのだ。

     もちろん、常に自分の望むルールで戦えるわけではない。音楽をきわめたものが権力に敗れることもあるし(マリウスとダリウス大公)、あらゆる面で頂点に立つものが愛をまえに敗れ去ることもありえる(グインとシルヴィア)。『グイン・サーガ』とは、きわめて複雑なルールのゲームなのだ。

     栗本の作品群の全貌は、ひとつ『グイン・サーガ』、ひとつ『終わりのないラブソング』だけを見ていてもわからない。そのひとつひとつは、表面だけを見ていけばきわめて異質なものにも見えるであろう。しかし、その本質はいずれも戦場感覚の物語である。

     「戦場でいかに生き抜くか」。このグランドテーマに対する答えはひとつではないと、そう栗本はいおうとしていたのだと思う。だからこそ、彼女は数えきれないほどの物語を生み出しつづけた。それはあるときは「性」の戦場で戦われるゲームであり、またあるときは「知」の戦場、「暴力」の戦場、「美」の戦場におけるゲームであった。

     その表面の多様性を取り払ってみれば、すべての作品が「生き抜くこと」を描いた物語であるとわかるだろう。ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、森田透にしろ、生き抜くことが楽ではない環境に突然に生み落とされた子供である。その生き方がわたしたちを感動させるとすれば、それはわたしたちの人生もまた戦場であるからだろう。

     その意味では栗本薫こそ、戦場感覚を代表する作家の一人である。その物語は、いまなお燦然と輝き、人々を魅了しつづけている。
     
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