弱いなら弱いままで。
購入して観ても良いのですが、そこは貧乏暮らしの身、安く済ませられるものなら済ませたいという思いがあります。
で、同時期に、この『風立ちぬ』の制作現場を追ったドキュメンタリー『夢と狂気の王国』も発売されています。この2本を合わせて見ると非常に面白いので、オススメです。
まあ、『夢と狂気の王国』のほうは比較的発見しづらいかもしれませんが、それでも観る価値あり!の傑作ですので、ぜひ探してみてください。
前の記事の続きなのになぜ『風立ちぬ』の話かといえば、まあ、宮崎駿の作品が描くものが、現実の世界って、人間の作り出した色々な理屈はあまり通用しないよね、という話に繋がっていくからなんですけれども。
どこから話をしようかな。昨日書いたように、そもそもこの世界は人間にとって非常に不都合なシステムで成り立っています。ひとは死ぬし、努力は報われないし、愛は通じないし、資源は不足するし、まあ、ろくなものではないといえるでしょう。
その意味では正しくリアルはクソゲーなのです。この、非情な「自然世界のルール」のことをぼくは「グランド・ルール」と呼んだりします。
グランド・ルールを変えることはひとにはできません。まあ、人間にとって都合の良いように部分的に改善(あくまで人間から見てそうだ、ということですよ)してゆくことがせいぜいです。
そう、人間はそもそも「自然世界」のなかではほとんど生きていけません。あるいは少なくとも繁栄することはできません。だから、人間は「自然世界」のなかに「人間社会」を作り出そうとします。
この「人間社会」のなかでは、比較的ひとは死ににくく、努力は報われやすく、愛は通じやすく、資源は管理されやすいということになります。
「人間社会」は当然ながら人間にとって都合が良い場なのですね。人間が生み出した人間のルール、すなわちヒューマニズムが通用しやすい優しい場であるといってもいいでしょう。
愛は素晴らしいとか、平和は尊いとか、ひとの命は重いといったヒューマニズムは、この「人間社会」のなかではそれなりに正しく、また気高い理念だといえますが、「自然世界」ではまったく通用しません。
何度もいいますが、「自然世界」は本質的に人間に合わせて作られていないからです。よって「人間社会」の支配領域をどんどん拡大し、最終的には「自然世界」を支配してしまおう、あらゆるものを管理し尽くそう!というのが、つまりは「近代の夢」というものだったと思うのです。
そして、近代主義者(モダニスト)である宮崎駿は、この「近代という名の壮大な夢」の魅力をこれでもかと描いていきます。それはあるときは『風の谷のナウシカ』の墓所となり、またあるときは『天空の城ラピュタ』のラピュタ城となるわけです。
しかし、そうやって近代化を推し進めていってもなお、やっぱりほんとうは「人間社会のルール」は「自然世界のルール」に包摂されているんですよね。
その証拠にどんなに高度に洗練された都市空間においても、やはりひとは死ぬし、偶然の死や破滅は避けられません。グランド・ルールはどこまで行っても絶対なのです。
ひとが生きることはグランド・ルールを前にこうべを垂れることです。「この世界の偶然性」、つまりこの世界はほんとうは無意味で、偶然がすべてを支配していて、人間の努力や成長と結果との因果関係など存在しないということを受け入れる、あるいは少なくともそれと折り合いをつけることが、ひとの「成熟」というものだと思います。
『グイン・サーガ』のアルド・ナリスは「なぜわたしはこのように生まれてきたのだ!」と悩み、世界に向けてその問いを突きつけましたが、最後には「自然世界のルール」を受け入れて死んでいきました。
かれは死に際してついに人間として成熟したのです。ちなみにこれはまさに近代の悩みで、ナリスは『グイン・サーガ』でグインその人を除くと唯一の近代人だったのだと思う。
また一方で、この近代と科学(サイエンス)を信奉する人々に、アーサー・C・クラークやJ・P・ホーガンなどのSF作家の系譜があります。
現代でいえば、グレッグ・イーガンですね。イーガンは
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