才能という言葉にはふしぎな魅力がある。多くのひとがその言葉に惹きつけられ、多かれ少なかれ気にして生きている。

 しかし、よく考えてみればこれほど正体不明の言葉もない。いったい才能とは何だろう? 何ができれば才能があることになるのだろうか?

 ぼくの考えをいわせてもらえば、才能とは結果によって判断されるものである。だれかが結果として成功すれば、そのひとは才能があったといわれる。失敗すれば、才能がなかったと見なされる。それだけのものだ。

 もちろん、成功失敗には努力や時間も大いに関係しているはずだが、大抵の場合、それは無視される。ひとはこう思うものなのだ。たしかに努力の問題はあるだろう。しかし、努力だけでそこまでひとと差がつくものだろうか? 才能の差があると考えなければ説明がつかない、と。

 つまり、才能とは結果の巨大な格差を説明するためのマジックワードであり、ほとんど実体がない空虚な概念であるともいえる。

 たしかに生まれつきの能力の差、といったものはあるだろう。それは努力の質や量だけでは説明し切れないものかもしれない。しかし、すべてを才能という言葉で説明してしまうことはいかにも安易だ。

 他人の成功を「あのひとには才能があったのだ」というひと言で切り捨てられるひとには、たしかに才能がないのだと思う。

 もしあなたが自分に才能があるかどうか気にしているようなら、その時点であなたにはほんとうに才能がない、といういい方もできる。才能があるひとなら、自分に才能があるかどうかなどと悩むこともせずにその行為に夢中になっているはずだから、という理屈だ。

 自分には才能がないのではないかと悩む時点で大した才能はないのだ。天才は才能の有無に懊悩するより前にその物事を楽しみ抜く。

 羽海野チカの『ハチミツとクローバー』に森田馨と忍という兄弟が登場する。心に暗いものを抱えた秀才である馨に対し、弟の忍は天才肌の人物で、一切ダークサイドを持っていないように見える。