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スマイリーキクチ『突然、僕は殺人犯にされた』は、お笑い芸人の著者がある日を境にネットで殺人犯の汚名を着せられ、誹謗中傷の的となった様を描いた一冊だ。
著者は何年もかけて警察に被害を訴え、ついに自分を誹謗していた人々を突き止めるのだが、それは年齢も性別も社会的地位もバラバラの連中なのであった。
この本を読んでからぼくは時々考える。ネットでひとの悪口を書きまくっているひとたちは、いったいどんな人生を送っているのだろうと。
おそらくは、たいした意図もなしに書いているに違いない。いま目の前にいる人間を罵倒することはそれなりに年季の入ったイヤな奴でなければできないが、ネットで中傷することは非常に気楽である。だれにでもできるし、だれでもしてしまう可能性がある。
何かに怒って、感情を抑制し切れないとき、ついつい言葉が過激になってしまうということはありがちなことだ。それは、良くはないかもしれないがふつうのことである。
一方で、積極的にひとに悪意を向けている人物というものもあるはずだ。日がな一日ネットに向かい悪意を配ってまわっているようなひと。
山本弘『詩羽のいる街』にそういう男が出てくる。かれにとってはひとに嫌がられることこそ歓びであり、生きがいだ。かれの行動に特に目的はない。ほんとうにただひとの人生を台無しにすることが嬉しいというだけの男なのである。
しかし、物語が進むにつれ、男は自分のそんな行動には論理的な意味がないと悟っていく。個人的に山本さんの「論理」という言葉の使い方はちょっと疑問があるのだが、この場合はたしかに悪意に固執しても幸せになれるわけではないだろう。
ひとを傷つけてやったという卑小な歓びはあるかもしれないが、それは心の平安には繋がっていかない。積極的にひとに悪意を向ける者は、どこかで心の構造が歪んでしまっているのだと思う。
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