妹さえいればいい。 (ガガガ文庫)

 ペトロニウスさんの最新記事を読みました。


 ほとんど改行がなくてめちゃくちゃ読みづらいのですが、非常に面白い内容です。

 そして、きわめつけにタイムリー。

 これは必然的な偶然だと思うのだけれど、「リア充オタク」を巡る話題とストレートに繋がっています。

 この記事、「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」というタイトルなのですが、まさにこの「主人公になれないぼく」を巡る問題こそ、ここ最近、一部の少年漫画やライトノベルが延々と語ってきたテーマだと思います。

 つまり、高度経済成長が終わり、「努力・友情・勝利」がストレートに成立しなくなった現代において、物語の主人公になる(努力して勝利する)ことができなくなった「ぼく」はどのように生きていけばいいか?という話ですね。

 これは非常に現代的なテーマだといっていいでしょう。この答えを模索し、そしてついにはひとつの答えにたどり着いた、いま、ぼくたちはそういう物語をいくつか挙げることができます。

 くわしくは「物語三昧」のほうを読んでほしいのですが、この記事を読むと、「リア充オタク」という概念の古さがはっきりとわかります。

 「リア充」という概念はもう克服されたものであるわけです。

 ぼくたちは――というかぼくは、もう「リア充」と「非リア」、「モテ」と「非モテ」、「勝ち組」と「負け組」、「主役」と「脇役」といった対立概念を持ち出し、前者でなければ幸せではありえないのだと考える価値観を乗り越えている。

 そして、それと同じことは『僕は友達が少ない』から『妹さえいればいい。』に至るライトノベルの流れのなかではっきり示されています。

 『僕は友達が少ない』は、「リア充」を敵視する「残念」な人たちの話でした。

 この物語のなかで、主人公は最後までだれかひとりと結ばれることなく(リア充になることなく)終わります。

 最初から最後までかれは「残念」であるわけです。

 これは、あたりまえのライトノベルを期待した読者としてはまったく気持ちよくない展開であるわけで、当然のごとくこの結末は悪評芬々となりました。

 しかし、テーマを見ていくとこの結末で正しいのです。

 というのも、仮にかれがだれかとくっついていたら(リア充になっていたら)、この物語のテーマである「残念でもいいじゃないか」、「リア充にも成功者にもなれなくても、人生はそのままで楽しいのだ」ということが貫けなくなってしまうからです。

 だから、『僕は友達が少ない』のエンディングはあれで完全に正しい。

 ただ、まったく快楽線に沿っていないので、単に気持ちいいお話を求める大多数の読者には怒られることになるというだけで……。

 さて、順番こそ少し前後しているものの、『僕は友達が少ない』の次の作品である『妹さえいればいい。』では、テーマがさらに進んでいます。

 この物語にはこういう記述があります。

 才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。

 誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。

 一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。

 この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。

 ここで作者ははっきりと「リア充」対「非リア」といった二項対立的な価値観を乗り越えているわけです。

 そして、この作品のなかで描かれるのは、この「メインテーマ」を前提とした、どこまでも楽しい日常です。

 べつだん、『僕は友達が少ない』とやっていることは変わらないのですが、ペトロニウスさんが書いている通り、『僕は友達が少ない』よりさらに楽しい印象を受ける。

 それはなんといっても、登場人物たちがみな自立した社会人であり、精神的にバランスが取れた人物だからです。

 かれらの日常はとても充実しているといっていいでしょう。

 ぼくは以前、それを「リア充にたどり着いた」といういい方をして表したのですが、いまとなってはこの表現は正確さを欠いていたということがはっきりわかります。

 むしろ、「「リア充」を乗り越えた」というべきでした。

 より的確にいうなら、「リア充」とか「非リア」という二項対立的な概念を持ち出し、その一方でなければ幸せにはなれないのだという価値観を乗り越えたというべきでしょう。

 そう、『妹さいればいい。』の連中ははっきりと『僕は友達が少ない』のテーマの延長線上を生きています。

 かれらもまた、ある意味ではコミュ障であったり、妹キチガイであったり、メイド好きであったりと、実に「残念」な連中です。

 それなりにオシャレだったりアクティヴだったりする面はあるにしても、べつに何もかもが秀でたリア充というわけではない。

 しかし、かれらはそのことにもはや一切の負い目を感じていません。

 もちろん、