それは、そこにいた。
 上から、木洩れ陽(こもれび)のように注ぐ、青い月光の中だ。
 幸いにも、こちらが風下(かざしも)だ。
 音も、匂いも、向こうへは伝わりにくい。
 草の中にうずくまり、一本の橅(ブナ)の幹に身体の一部を預けている巨大な獣。
 グリズリーよりも、ホッキョクグマよりも、肉の量感のあるもの。
 幾つもの翼がある。
 何本もの腕や、脚が生え、それには獣毛が生えている。
 獣毛が無く、鱗のある部分もあった。
 鉤爪(かぎづめ)。
 羽毛。
 そして、幾つもの頭部。
 口。
 嘴(くちばし)に似たものもある。
 蛇のようにゆるくのたうつ、腕とも脚ともつかぬもの。
 ぐるるるるる……
 るるるるるる……
 チ、
 チチチ、
 チチチチチ……
 低く唸るような声。
 囀(さえず)るような声。
 そして、無数の口がたてる、荒い呼吸音。
 普通、吸気の時は身体がふくらみ、呼気の時は身体が縮む。
 しかし、幾つもの頭部や口は、不揃(ふぞろ)いに呼吸を繰りかえしている。しかも、吸気と呼気の速度がばらばらだ。
 麻酔弾が利いているらしい。
 もこり、
 もこり、
 と、全身が動いている。
 と、その動く獣毛の中から、口が伸びてきた。
 頭部ではない。
 それには、眼も鼻も、耳もなかった。
 口だけが、ちょうど、子供の腕の太さぐらいの棒状のものとなって、その身体から伸びてきたのである。
 その先端に、口がある。
 口とわかったのは、先端が上下にか、左右にかはわからないが、ふたつに割れていて、そこから歯らしきものが覗いているのが見えたからである。
 そして、舌が。
 その棒状のものの内側を、何かがせりあがってくるのがわかった。
 下方部分が膨らんで、その膨らんだ部分が上に移動してくるからである。
「えっ」
「えっ」
 と、それが、人で言うなら、えずくような音――あるいは声をあげた。
「ケッ」
 と、その口が、何かを吐き出した。
 小さな、赤黒い、鶉(うずら)の卵ほどの大きさのものだ。
 それが、獣の体表面を転がって、草の中に落ちる。
 その時には、もう、同様の次の口が出現している。
 その次の口が伸びている間に、身体のあちこちから、また次の口が出現して伸びてゆく。
 どれも同じだった。
 出現した口は、伸び、えずいて何かを次々と吐き出してゆく。
 吐き出すたびに、それは、すこしずつ元気になってゆくようであった。
 そうか!?
 九十九は、樹の陰からそれを見ながら思った。
 あの出現した口は、自分の体内から毒素を――つまり、麻酔薬を、血肉と共に吐き出しているのだ。
 そして、出現した口が、ころりと、光るものを月光の中に吐き出した。
 銃弾であった。
 さっき、撃たれたおり、体内に潜り込んでいた銃弾を、あの口は吐き出したのだ。
 それを見ながら、
 どうする!?
 九十九は考えていた。
 もしも、久鬼を、この獣を捕えるなら、チャンスは今だ。
 この獣が、覚醒しきる前に捕える。
 このままだと、どんどん獣は回復していって、じきに、もとの生気を取りもどしてしまうであろう。そうなったら、もう、捕える方法はないのではないか。
 この森のどこかに、宇名月典善(うなづきてんぜん)と、麻酔銃を持った人間たちがいるはずだ。
 彼らに連絡をとるか。
 しかし、連絡をとるといっても、どうやって。
 携帯は?
 しかし、携帯で連絡がとれたとして、どうやってこの場所のことを伝えればいいのか。
 そのために声をあげたら、この獣に、久鬼に気づかれてしまうのではないか。
 いや、そんなことではない。
 そもそも、自分は、あの久鬼玄造に、この久鬼を捕えさせたいのか。
 わからなかった。
 小さく、身じろぎした。
 その時、九十九の足の下で、
 ぴしっ、
 という音がした。
 足の下に踏んでいた小枝が、折れたのだ。
 そいつの体から、一斉に首が頭を持ちあげた。
 どれも、音のした方を見た。
 ぎ……
 と、それが鳴いた。
 ぎ……
 ぎるるるる………
 ぎるりりり………
 そして――
 かっ、
 かっ、
 と、幾つもの眼が開いてゆく。
 かあっ、
 かあっ、
 と、幾つもの口が開いてゆく。
 伸びた鼻が、臭いを嗅ぐ。
 もぞり、
 と、全体が動いた。
 それが、立ちあがっていた。
 もし、逃げるという選択肢があったとしたら、それは、すでに失われていた。
 木の枝を踏んで音をたてた時、すぐに、逃げるべきであったのだ。
「九十九くん……」
 低い声で、吐月が言った。
「君は、ゆっくり逃げなさい。わたしが、彼の気を引く」
 前に出てゆこうとする吐月の肩を、九十九が押さえた。
 覚悟は、決まっていた。
「ぼくが行きましょう」
 言い終えた時には、九十九は、樹の陰から出ていた。
 巨大な獣の前に立っていた。
 不思議なくらいに落ちついていた。
 足も震えていない。
 迷いはなかった。
 枝を踏む音が聴こえたのだ。
 久鬼の耳に、声は届くのだ。
 やるべきことは、ひとつしかない。
「久鬼、おれだ。九十九三蔵だ」
 九十九は言った。
 自分の声が届くか。
 届いたとして、久鬼にそれがわかるか。
 わかったとして、あの誇り高い久鬼がどう思うか。
 そういう思考を捨てた。
「久鬼、もう、いい……」
 そう言った。
「おれがわかるか。おまえは、もう、充分に苦しんだ――」
 本心だった。
「おまえを救いたい。おれは、おまえの味方だ――」

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画/今野隼史


初出 「一冊の本 2013年8月号」朝日新聞出版発行

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