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シューティング初代ライトヘビー級王者・川口健次インタビュー。その始まりから見続けてきた男が語る
「修斗」とは何か?


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――
シューティングの創生期から現在まで格闘技界に携わっている方はごくわずかなんですが、川口さんはその中のおひとりになるんですね。

川口 そうなりますね。何もないところからシューティングが競技のかたちになっていくところを近くで見てきました。

――
そんな川口さんがスーパータイガージムに通いだしたきっかけはなんですか?

川口
 昭和の時代って本当の格闘技ブームだったんですね。プロレス以外にもジャッキー・チェンの映画なんかも流行ってましたし。

――
プロレス格闘技に触れられる機会が多かったですね。

川口
 ボクの親父がテレビでプロレスをよく見てたんですけど、つられて初代タイガーマスク(佐山聡)を好きになっちゃったんです。その佐山先生が新日本をやめたのが1983年、私が中学3年の夏で。佐山先生が一般人も通えるジムを設立すると聞いたので、高校生になったら入会しようと思ってたんです。最初は二子多摩川にできたんですが、入るか入らないか迷ってるうちにその場所にはなくなっちゃって。そうしたら三軒茶屋にあらためてジムができたんです。

――
それがスーパータイガージムですね。 いまはシルバーウルフのジムがある場所で。

川口  メインインストラクターは宮戸(優光)さん、山崎一夫さん。宮戸さんが常時指導されてましたね。でも、その頃は競技的なものではなくフィットネス感覚だったんです。

――
「格闘技で強くなろう!」というジムではなかった。 

川口
 じゃなかったですね。もちろん強くなるために来ている人もいれば、プロレスラーを目指すために通ってる人がたくさんいましたけどね。だいたいの人が「プロレスラーになりたい!」という人ばっかりだったんですが、ジムの指導内容とは方向性は全然違いますよね。だからプロレスラーを目指して入った人はやめるのは早いんですよ。強くなるために入ってきたのが私や、 いまの修斗協会副会長の横山忠志さん、ジークンドーの中村頼永さんですね。朝日昇さんはだいぶ後になってから入ってきてて。

――
川口さんが入会したのは初期も初期だったんですね。

川口
 初期でも入会者の数は凄かったですね。オープン1週間で100人は超えて、最終的に会員は1000人は超えてたみたいですけど……当時の月謝は銀行引き落としじゃなくて集金でしたからね(笑)。

――
ちゃんと月謝が集められていたかはわからないと(笑)。スーパータイガージムの方向性はどのようにして変わっていったんですか?

川口
 オープンして1年経ったときですよね。それまではメニューを出されてサンドバッグを叩いたり、器具を使ってトレーニングをする程度だったんですよ。その頃には平直行さんがインストラクターとして入ってきたりして、シューターテストもやるという話が上がってきたんです。シューターテストというのは技術テストですよね。あと合同練習もやり始めるようになりました。

――
合同練習ってどういうことをやるんですか?

川口
 それまでも月に1回はみんなが集まってやってたんですよ。ただ、みんなでシャドーをやったりするくらいで、そんなに強くなった気はしないんですけどね(苦笑)。でも、 自分で自分のケツはなかなか叩けないじゃないですか。合同練習をやるようになってから少しずつレベルアップしていきましたね。 佐山先生もそのへんから競技的なことを考え始めたのかな。

――
その頃は宮戸さんや山崎さんたちはUWFに移っていたんですか?

川口
 どうだったかな。途中でいなくなったことはたしかなんですけど。当時は事情はよくわからなかったですね。佐山先生との方向性の違いはあったみたいですけど。その頃の私は単なる会員だったので明確な理由はわからないです。

――
中村頼永さんや北原光騎さんがインストラクターになるわけですね。

川口
 あとは平さんと、佐々木さん。

――
佐々木さんもは後にUWFに移りますね。

川口
 平さんや佐々木さんはどちらかというとプロレス志向が強くて。佐々木さんがUWFに行ったときとは「ああ、やっぱりな」という感じでしたね。まだ格闘技がプロ化されてないから将来的にはそっちの方でやってみたいとはなりますよね。

――
中村さんや北原さんの証言だと、ジムとは別の場所で佐山先生が直々にあの2人に秘密の特訓を受けさせたと聞きますね。 

川口
 ああ、やったみたいですね。それは第1回プリ・シューティングテストを控えて極秘でマンツーマンテストをやっていたとか。ボクらはやってることはなんとなく聞いてたんですけど……。

――
どうして極秘だったんですか?

川口
 これは言っていいのかな……◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯だったみたいですね。

――
な、なるほど!! プロレスには行かない中村さんや北原さんに技術を教えて、何かあれば彼らが先頭に立って戦う……ということなんでしょうかね。

川口 ということだと思いますね。当時は戦う場所がなかなかないですから年齢的にも焦りはあるし、他で戦えるなら……と考えちゃいますけど。中村さんや北原さんはプロレスラーになりたいという雰囲気ってなかったですしね。 

――
そこは佐山先生も見極めていたということですね。

川口 だと思いますね。

――
でも、その北原さんが全日本プロレスに行くんだから面白いですね。

川口
 それは意外だったんですけど、結局インストラクターとして北原さんが1人だけ残っちゃったんですよね。 勝山(恭次)さんが補佐でインストラクターをやっていたんですけど。北原さんも競技としてはやれてない状態だったので、どこおか戦える場所は探したとは思うんですね。

――
北原さんはヘビー級の身体ですから、もったいないですもんね。

川口
 話を戻すと、ジムのメニューがフィットネスから競技化に変わったときは平さんが中心だったんですが、スパーリングがとにかく凄かったですね。 掌打でガンガンやってましたから、みんな血だらけで。マウスピースもつけてなかったですしね(笑)。

――
まだ練習方法がよくわかってなかったという。

川口
 平さんもよくわかってなかったから、実験方法としてとにかくスパーリングをやると。いわゆる会員はダミー扱いになるわけですから、スパーでボコボコされてやめちゃう人もけっこういましたよね。殴られてジムの中で大泣きする人もいましたし(笑)。

――
月謝を払ってボコボコにされる(笑)。

川口
 何度やられてもジムに来る人を平さんは相手にするし、若いと打たれ強いじゃないですか。そのときのボクは高校生でしたけど、しょっちゅうケガはしてましたね。そのせいで体育の授業を見学してましたからね(笑)。

――
ハハハハハハ! ヘッドギアはつけてたんですか?

川口
 つけているときと、つけてないときがありましたね。 ボクシンググローブのスパーリングはヘッドギアありでしたけど、たいていつけてなかったですよねぇ。本当に実験段階だったから。

――
佐山先生はどういうスタンスだったんですか?

川口
 あのときの佐山先生はジムに来たり来なかったりで。そんなに指導はされてなかったです。

――
ということは、初期スーパータイガージムは平さん主導で実験を繰り広げられていたということですね。

川口
 たぶんそうだったと思いますね。北原さんと中村さんはそこまでガチガチにはやらないんですけどね。

――
それは佐山先生との極秘特訓の方がメインだったということなんですかね。

川口
 指導のときは「もう疲れてた」と言ってましたけどね。ボクらがやっていたこともスパーというより、ただのケンカに近いですけど。

――
そこまで激しいと「ちょっとやりすぎだ!」ってことで揉めたりしなかったんですか?

川口
 いや、みんな「これが本当の格闘技だ、これが格闘技の練習なんだ!!」と思ってたんですね(笑)。
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