まず初めに申し上げておきたい!
3年の時を越えて再開した『ひろぐ』だが
誠に勝手ながら
動画配信に関しては再開する気が無い上に
会員限定記事というものも書く気はない!
(書いた事もない!)
なので!
このブログ全体を管理する吉本興業はいい顔をしないだろうが
すべての『ひろぐ』読者は
有料チャンネル会員なるものに登録する必要は一切ないと考えている!
既に登録してしまっている人は
まことに申し訳ないが
私としては登録解除をお薦めする!
私は『ひろぐ』を収入を得るためのものにしたくないのだ!
はてさて!
2023年1月21日に
山形県村山市で行った講演会は
実に楽しかった!
山形市で生まれ育った私は
そもそも村山市というところに行った記憶がなかった!
私が暮らす大阪の人にそれを言うと
「えー?生まれた県やのにー?」
と驚かれる!
日本で2番目に小さい都道府県の定規では
東北の巨大な1県は決して測れない!
しかしその一方で
「じゃあお前は島本町に行った事があるか?」
と大阪人に尋ねると
「大阪府にそんな場所ないで!」
とか言う!
ある!
これまで何度か講演会なるものを行った事があるが
どれもうまくいった試しがない!
理由は私の話す内容が関西弁で言う”あっちゃこっちゃ”だからだ!
子供時代の話をしているつもりが
いつの間にか昨日の話になり
演劇を始めるきっかけを話していると
気がつけば”サッカー”や”自動販売機”の話になり
今の若者に期待する事を語っていると
”ラヂオ塔”や”架空の路線図”の話に進んでしまう!
そうこうするうちに終了時間が来て
聴衆は「結局なんだったんだ?」とつぶやいて
会場を出るような
そんな講演会しかできた事がなかった!
今回こそそんな失敗はしないようにと
大阪から山形に向かう飛行機の中で
ペンと紙片を取り出し
話すべき内容をリストアップしようと試みた!
しかし!
あれも話そうこれも話そうとする頭の中の考えが
すでに”あっちゃこっちゃ”となり
結局その紙に書いたのは
「順番に」
という3文字だけだった!
山形での子供時代から大阪で暮らす今に至るまで
その体験をとにかく順番に語ろう!
”あっちゃこっちゃ”にならないためにはそれが一番だ!
この3文字ならば演台にメモを置かなくても覚えられるので
書いた紙は山形空港のゴミ箱に捨てた!
(*実際に大阪人が使う”あっちゃこっちゃ”は
主に視線が定まらない人のことを指す!
例文:目ぇあっちゃこっちゃなおっさん。)
最上川が流れる村山市は
私が生まれ育った山形市よりも
はるかに寒い豪雪地帯だ!
その日も早朝から雪が降り積もり
山形県内では多くの道路が”きろっきろ”に凍結していた!
(*道路が凍結している様を山形人は
”きろっきろ”と表現する!
例文:きろっきろで行がんない。)
しかしそれでも
村山市民会館にはたくさんのお客さんが集まってくれた!
そして多少の”あっちゃこっちゃ”はあったものの
どうにかうまく「順番に」話す事ができた!
おかげでお客さん達もずいぶん楽しそうにしてくれたし
最後にはまさかの涙してくれる人まで現れた!
質問コーナー的な時間も用意してもらった中で
”山形の怪人”ミッチーチェンが
「最近朝ドラにはまってるんですが
大王がもし山形を舞台に朝ドラを書くとしたら
山形出身の誰を主人公にしますか?」
と質問してきた!
なんでこんな場所で聞くのだ!
普通にLINEしてくればいいじゃないか!
そもそも”最近朝ドラにはまる”というのがよくわからない!
しかしそうした全てが彼を”山形の怪人”とする所以だとして
受け入れる事にした!
だがその時の私にはこれといった人物が思い浮かず
ミッチーチェンは
「山形が産んだコメディアン伴淳三郎さんはどうか?」
と提案してくれたが
私は
「人ではなくオットセイかもしれない!」
と”ブロニー君”の話題に軽く触れた!
(左が最近朝ドラにはまっている人、右が朝ドラ最多出演女優の夫)
そうだ!
確か会場の客席には
”オットセイのブロニー君は大火で死んだのではない”と主張する
山形大学の小幡圭祐准教授がいるはずだ!
山形新聞の記者に頼んで
まだ会った事もない彼を
村山市まで連れて来てもらっていたのである!
「オットセイのブロニー君の死に関して
新説をお持ちの先生はどちらですか?」
と尋ねると
ミッチーチェンのすぐ近くでメガネの男性が照れながら手を挙げてくれた!
講演終了後に小幡准教授を楽屋に招き
はじめましての挨拶をした!
40km離れた山形市まで私を送ってくれる
村山市役所の人たちが待ってくれていたので
あまり長い時間は取れなかったのだが
小幡准教授との話は実に噛み合った!
「ブロニー君は千歳公園の植木市ではなく
全国産業博覧会に来て亡くなったのではないか?
と僕は考えてるんです!」
なんでも彼は明治以降の歴史や文化の研究者であり
そうした時代の山形をも深く専門に研究しているとの事だった!
前回もリンクを張った小幡准教授のブログ記事
『オットセイのブロニーは山形大火で死んだのか?』
にある通り
ブロニー君の墓標に彫られた昭和2年10月19日と
明治44年5月8日に起こった山形の大火とは
あまりにも時代が異なり関係があるとは思えない!
ところが昭和2年と言えば
山形市で全国産業博覧会なる催しが開催されていたらしい!
ブロニー君はそのイベントに出演すべく山形にやって来た上で
石を14個飲み込んで死んだのではないか?
と言うのが小幡准教授の説というわけだ!
うん!
そうだ!
多分そうだろう!
いや!
きっとそうだ!
私は己の浅はかさを嘆いた!
後藤ひろひとは山形に伝わるあまりにも美しい都市伝説に
完全に乗せられていたのだ!
そう思うとまるで自分が
オットセイの鼻先に乗るボールの中にいて
くるくると転がされているような気分になった!
この小幡准教授があのブログを書いたのは
作家、後藤ひろひとの鼻を明かすためか?
空想で物を書く私を山形の歴史学から排除しようという魂胆か?
いや!
決してそうではなかった!
なぜなら彼は話を終えると
かばんの中からおもむろに私の著書である『大王集』を取り出し
「あのう・・・もしよろしければサインなどを・・・。」
と言い出したからだ!
聞けばどうやら
ずっとずっと私を応援してくれていた人物らしく
今回の一件は
”応援している後藤ひろひとから突然連絡があり村山市に呼び出された”
というまさに”寝耳にミミズ”の大事件だったというわけだ!
(村山市民会館楽屋にて小幡圭祐准教授と)
別れ際に
私の祖父である後藤嘉一(かいち)も
山形の郷土史研究家だったと告げると
軽く笑われた!
明治から昭和初期の山形を研究すれば
その権威としてどうしても後藤嘉一が登場するため
知らないはずがないと言われた!
私にとっては実に面倒な頑固じじいでしかなかった祖父だが
そう言われるのはたいそう名誉な事である!
「もっとゆっくりお話したいので
近いうちに大学研究室に遊びに行ってもいいですか?」
と尋ねると
「ぜひどうぞ!」
と言ってくれて我々のファースト・コンタクトは終了した!
だが!
その翌日!
1990年に死んだはずの祖父、後藤嘉一が
私や小幡准教授を心底興奮させる
とんでもない贈り物を送りつけて来る事になる!
時空を越えたその衝撃の贈り物に私は
「嘉一ボックス」と名付けた!