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映画(動画)というものが発明されて100年余りになるが、その過程で、映像が持つ独特のケレン味(魅力)というものがいろいろに分かってきた。そういう中でアニメーターは(特に日本のアニメーター)は、「動画というものの面白さとは何か?」というのを研究して、いろいろと知識や経験を積み重ねてきた。
そして高畑勲監督は、そういう動画として面白いシーンを集積して一本につなぎ合わせるのがアニメーション映画だと考えて、その道をずっと突き詰めてきた。ストーリーやキャラクター、あるいは世界観云々の前に、まず動画としての面白さがあるのがアニメーション映画だと。そういうふうに考えて、50年間アニメに携わってきた。
そんな監督が7年の歳月をかけて作った作品だから、「かぐや姫の物語」は、動画としての面白さが詰まったものとなっている。まず何よりも目を楽しませることを目的として、この映画は作られた。
そういう文脈を理解していないと
そして高畑勲監督は、そういう動画として面白いシーンを集積して一本につなぎ合わせるのがアニメーション映画だと考えて、その道をずっと突き詰めてきた。ストーリーやキャラクター、あるいは世界観云々の前に、まず動画としての面白さがあるのがアニメーション映画だと。そういうふうに考えて、50年間アニメに携わってきた。
そんな監督が7年の歳月をかけて作った作品だから、「かぐや姫の物語」は、動画としての面白さが詰まったものとなっている。まず何よりも目を楽しませることを目的として、この映画は作られた。
そういう文脈を理解していないと
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私は理解できない作品に出会ったら、まずパロディ作品を探します。そうすると『あ、こういう楽しみ方もあるのか』というのがわかります。それでも面白くなければ面白くないというのは構わないと思ってます。分からないというのと面白くないというのは全く違うのに、そう思う人って多いですよね。
この映画を見たことでようやく、三島の『豊饒の海』は『竹取物語』を下敷きにしているのだという事に気づきました。
『かぐや姫の物語』も『豊饒の海』も庭というものを重要視しており、それが最後に出てくる点は興味深いです。
前者では終盤、一度主人公が否定した作り物の庭がきらりと光って元に戻っているシーンがあったように思いますが、あれはどういう意味なのかが気になりました。
とりとめもないコメントで、すみません。
岩崎夏海(著者)
>>1
自分が分からないということは大きな不安なんです。
その不安からどう逃れるか?
楽して逃れようとする人は大きな落とし穴にはまり、苦労して逃れようとする人は大きな果実を得る。
「急がば回れ」の最たる例だと思います。
岩崎夏海(著者)
>>2
「竹取物語」がなぜ千年も保ったのかといえば、それは神秘をテーマにしたからなんですね。
人間は神秘に惹かれます。
「竹取物語」の神秘は大きく三つあって、「竹」「美(人)」「月」なんです。
「竹」も「美(人)」も月も人間にとっては神秘的なので、それらがトライアングルをなすといやに説得力が増すんですよね。