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 長らくお待たせしました。
 noteを見ていただいた方にはおわかりかと思いますが、今回、最後だけちょっと、課金制にするということを試みました。
 自分にとって多少、大っぴらには書きにくい部分があったことと(傍から見ればどうということのないものなのですが……)、正直、少しでもリターンがないと書き続けていくことが難しくなりつつあると感じてのことです。兵頭新児の文章に何らかの価値がある、と考える方は少々の援助をお願いしたいと思っていたのですが……。
 課金制にするため、ニコニコ運営に書類を申請し、一週間という時間をムダにした挙げ句、「お前にカネを取らせる気はない」とのありがたいお答えをいただきました。
 こうして社会に害毒をばらまくフェミニズムは莫大な予算を得続け、それに抵抗する勢力は日干しにされ続けるのでしょう。
 まあ、グチっていても始まりません。
 こちらでは無料部分だけを公開することにします(それだけでも一応、完結しているんで……)。
 志をお持ちの方は、noteに飛んで、それ以降は課金の上、お楽しみいただければ幸いです。
 あっちはあっちで、色替えもサイズ替えもできない仕様が今一なんだよなあ。

 さて、では前回の続きです。
 誰も気づかなかったと思いますが、前回記事のタイトル、「誰が京アニ放火犯に笑ったか」は、『ルパン』1stシリーズの「誰が最後に笑ったか」のもじりでした。で、今回は悩んだ挙げ句、同じく『ルパン』の「狼は狼を呼ぶ」をもじることにしたわけです。
 いや、そんなタイトルでお遊びをするような、軽く扱っていい話題でもないのですが、しかし元ネタを明かすことで、この「放火犯」と「ヤマカン」とを=で結べるということを示したくて、敢えて申し上げました。
 そう、この京アニの火災が報じられた当初、まさかここまで悲惨な事件となるとわかっていなかった頃、「犯人はヤマカンでは」といったジョークが囁かれました。もちろん、その時点でも不謹慎極まりないものではあったのですが、しかし「ある意味、それは正しかったよな」といった辺りが、本エントリの主旨となります。
 ぼくはよく知らないのですがヤマカン、つまり山本寛師匠、『らき☆すた』の監督を降ろされた方ですよね。で、それを怨んで(かどうかは存じ上げませんが)ことあるごとにオタクへの憎悪を吐露していた方です。
 そんなわけで、師匠はブログで本件についての記事、「僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」」を発表、炎上しました。そこでは以下のような主張がなされています。

京アニは2007年、匿名掲示板の「狂気」と結託し、僕をアニメ制作の最前線から引きずり降ろした。
ここで言いたいのは、僕を引きずり降ろしたことへの恨み事ではなく、彼らが「狂気」と結託した、という事実である。

ここから彼らとネットの「狂気」との共犯関係、そして僕とネットとの飽くなき戦いが始まる。


 正直観念的で意味が取りにくい記事です。ネットで揶揄気味に言われる表現を使うならば、「ポエム」ですよね(この「狂気」とか「結託」について、具体的に語られた個所は文中にはありません。まあ、言えない事情もあるのでしょうが)。

「オタクがアニメを壊す」、そう僕は言い続けてきた。
ご丁寧に、事件の約2週間前に「カタストロフ」の予言までしていた。
僕の予言は、こんな最悪の形で、的中したのだ。


 オタクがもしいなければ、そもそも壊す前にアニメがここまでの発展したのか……については、可哀想なので問わないでおいてあげましょう
 まあ、本記事は最後までこんな調子。小金井のストーカー事件に言及するなど、その筆致は基本、純丘師匠と同じであり、基本的には前回の純丘評がほぼ100%、山本師匠にも当てはまると言って差し支えなさそうです。
 これ以降もブログでは本件について綴られていくのですが、「「被害者側」か「加害者側」か」においては以下のように宣っています。

僕は最初の一週間、嘆く術すら解らず、茫然としていた。
しかし、ある違和感に気付く。

どうもオタクたちが皆、ネットでさえ自己慰撫や相互憐憫に馴れ合っているのだ。
……あれ?

ひょっとして、お前ら被害者ヅラ?

 どうもオタクは本件について、青葉と連帯責任を負わねばならないようです。
 性犯罪は全て男の連帯責任! と絶叫するフェミ何とかいう思想みたいですね(にもかかわらず、師匠はこの記事に対する罵倒として自分が「犯罪者予備軍」と呼ばれたことに怒っています。自分はオタクを犯罪者呼ばわりしておいてです)。
これは戦争である。」においては

これは事件ではない。「戦争」なのだ。
僕はそう確信する。
「オタクというテロリズム」との戦争だ。

 そう、まさに青葉が「アニメ」を恨んだように、師匠は「オタク」を怨み、両者を対立概念として捉え、敵を滅ぼそうとしています。オタクとアニメは表裏一体となってここまで歩んできた「同志」であろうに、青葉も師匠も相手を敵と認識し、殲滅せよと絶叫しているのです。この両者の世界観に、一切の違いはありません
 その次にupされた(現状では最新の)エントリである「オタクという「病」:症状・改(今こそ再掲)」は400字くらいしかないような短い記事なのですが、ここでちょっとだけ師匠の価値観が明らかになります。
 師匠は「ネットで暴れている、ムカつくヤツら」を列挙し、それにこう付け加えるのです。

こういう症状が三つ以上顕れた人達がいたら、まず逃げましょう。
そしてこう叫びましょう。

「僕はアニメファンです!あんなオタクじゃありません!」

私の作品は「再定義した意味」での「オタク」と呼ばれる、非常に非社会的な害悪的存在に観せるために制作している訳ではございません。

 何だか、非常に懐かしい気分に囚われました。
 そう、かつて「オタク」は「オタク業界内」の差別用語でした。
 80年代、オタクコンテンツと言えるものはアニメ(と、美少女コミック)のみでした。そのため、当時は今でいう「オタク」は「アニメファン」と呼ばれ(ないし自称し)、その中で、悪質な(ないし自分が悪質と認識した)者を峻別、排除するために「オタク」と呼んでいたのです。
 この「オタク」という言葉、当初は中森明夫師匠が差別用語として持ち出し、大塚英志氏が「そうした造語で仲間を分断するのはよくない」と腐したのですが、まさに中森師匠の思惑通り、「業界内差別用語」として流通するようになった……というのが経緯です。
 今では、「オタクは宮崎事件などをきっかけにした言わば“冤罪”をマスゴミに仕掛けられ、不当に差別されてきたのだ」といった史観が定着しつつありますが、これは歴史修正に近い。実際には「オタク差別」というものはオタク内差別、オタク業界の中でヒエラルキーが上の者が下の者をゴミクズのように扱っていたことこそが、その本質だったのです。
 前回エントリでは「サブカルしぐさ」という言葉を繰り返しましたが、実のところ、80年代のオタク界内部で専ら行われていたのが、この「サブカルしぐさ」であったのです*1
 しかし、では、何故そこまでオタク同士というのは、仲が悪かったのでしょうか。
 オタク文化というのは基本、男の欲望をストレートに表現し、それを肯定するものです。「萌え」などまさにそうですね。
 こういうことを書くと、「女性向けのものを無視するのか!?」「オタク文化は本来、女性が!!」と言いたがる人が出てきますが、今に至るまで女性向けのオタクコンテンツが、少なくとも公の場で否定的に扱われるのを、ぼくは見たことがありません。
 そう、現代においては男性性は全て悪、女性性は全て善、という恐ろしく薄っぺらで単純極まる価値観が、絶対のものとして広く深く信仰されています。ぼくは時おり、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、男とは、裸になった瞬間、断罪される存在なのです。男とは、即ち悪そのものなのですから。
 つまり、「サブカルしぐさ」とは当初、オタクコンテンツという「悪しきもの」に耽溺している自分を誤魔化すため、「自分以外のオタクども」に「ケガレ」を負わせるためのテクニックであった。しかしオタクコンテンツが世に認められてよりは、その望ましい部分を手中に収めつつ、望ましくない部分(女性差別的とされる部分や、彼らにとってウザい下っ端のオタクたち)はツイフェミと同様にに切り捨て、見下し、否定するためのノウハウへと変わっていったのです。
 前回のエントリでは、純丘師匠は京アニを評価し、また自身もアニメファンであると強調していることをご紹介しました。そしてもちろん、それに嘘はないことでしょう。しかし彼の過剰な自意識は、「アニメなどという男の欲望に直結した、低劣な表現」をただ諸手を挙げて称揚することに耐えられませんでした。だから、持って回った『らき☆すた』の評価をし、「自分だけは他のオタクどもとは違うぞ」と強調せずにはおれなかったのです。そして、その時に援用されるロジックは、例外なく、フェミニズムなどをベースにした、ゾンビにも等しいリベラル的価値観です。男は、悪なのですから。それは宇野とも、『エヴァ』の時のサブカル君たちとも、*1に挙げたダニエル師匠とも「完全に一致」した振る舞いでした。

*1 今となっては、このことを覚えている人は少なかろうと思いますが、例えば「コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』」をご覧いただければその一端がおわかりになろうかと存じます。
 ここでは宮崎事件直後、コミケに取材に来た週刊誌の「差別的」なインタビュアーにサークル関係者が同調し、「オタク」に対して苦々しげに罵倒したり、また現在コミケスタッフを務めている兼光ダニエル真師匠らが「消費者」としてのオタクを侮蔑し、馬鹿にした商売をする作家たちを称揚するという実に奇妙な記述に行き当たります。
 この同人誌は「オタク外の悪者が、オタクを差別していたのだ」と実証しようとして、図らずも「オタク内の悪者が、オタクを差別していたのだ」と実証してしまったのだ、と言えましょう。

 しかし、不思議なことですが純丘師匠に比べて、ぼくは山本師匠を憎む気にあまりなれません。それは一つには純丘師匠が何とかオタクのネガティビティを表現しようとして、宇野辺りのロジックを援用しているのに対し、山本師匠はあまりに感情的で非論理的、その分、師匠の中のオタクへの憎悪がストレートに表現されており、それがある種、懐かしさ、言い換えれば親しみのようなものを感じさせるからです。
 純丘師匠が上からオタク資産を剥奪(それは『エヴァ』の時のサブカルのように)しようとしているのに対し、山本師匠はオタクと同じ位置に立ち、自分だけは何とか上に這い上がろうとして藻掻いている気の毒な人として、ぼくの目には映るからです。
 師匠が、例えばですが「俺、オタクアニメとかキョーミねーし。ジブリくらいのクオリティなら評価するけどね」とでも言っていれば、ぼくは素直に師匠を憎めたでしょう。「関係ないおっさんがエラそうにくちばしを突っ込んでくるな」と言っていれば済む話です。しかし、彼はアニメの中でもオタク的感性に特化した京アニの出身です。『らき☆すた』の監督です。これはオタク少女がオタクライフを満喫する日常を描くことをテーマとする作品。ぼくは未見なので、山本師匠がどんなふうにかかわったのかを存じ上げませんが、それこそEDでキャラクターたちが特撮ソングやアニメソングを歌う趣向それ自体が、或いは師匠によるものだったのかもしれません。
 もう一つ、(知識が偏っていて恐縮ですが)師匠はアマチュア時代、戦隊パロディ作品『怨念戦隊ルサンチマン』という作品を作っておりました。いや、これも未見なんですが、今で言えばリア充なり陽キャなりを仮想敵にした作品。
 つまり、師匠はオタクとして、明らかにぼくたちと極めて近しいところにいた人物なのです。
 そう、彼もまたオタクであり非リアであり陰キャだからこそ、近親憎悪でオタクを憎んだ。痛ましいけれども、ぼくたちも師匠もそこまで追い詰められた者同士です。
 クラスのガキ大将にいじめられる、スクールカーストの最下位から二番目だからこそ、師匠は最下位であるぼくたちを泣きながら猫パンチで殴っているのです。
 それは、実のところ青葉の振る舞いと非常に似ています(違いは、一応青葉がその攻撃衝動を自分よりも持てる者へと向けたということだけでしょう)。
 今回、アニメ評論家である氷川竜介氏がツイッターで積極的に発言していたのですが、そんな中に、「この件でいろいろ取材を受けたが、取材する側にも京アニのファンがいたりして、心強く思うと共に、随分と時代が変わったとの感慨も受けた」といった主旨のものがありました。
 しかしその氷川氏も京アニファンの取材者も山本師匠も、いえ、青葉でさえも、「京アニ」によってつながった、言ってみれば「友だち」でした。例えばですが、十年ほど前のネットの匿名掲示板で、ぼくたちもひょっとすると、好きなアニメの話題で彼ら彼女らと語りあったことが、或いは、あったかもしれないのです。
 しかし、いつからか青葉と山本師匠は道をたがえてしまった。
「オタク」という言葉に、自分の中にもあるネガティビティを封じ込め、他者へと擦りつけるという性犯罪冤罪にも似た卑劣な振る舞いは、既に破綻しています。山本師匠はそのやり方がまだ「アリ」だと思い込んでいる、時代に取り残された哀れな人間なのです。
 それと全く逆方向に位置にするのが、取材者がファンと知り、力づけられたという氷川氏のエピソードです。ぼくにはこのエピソードが、まさに「初めてボーナスをもらったと喜んでいた、本件で殺されたスタッフ」に重なって見えます。
 本来は、そうした格差はあれど、ぼくたちは友だちであった。
 しかし、自分たちの利益のためにそれを分断した者がいる。
 青葉は、山本師匠は分断された、見捨てられた側であった。
 ぼくが前回、純丘師匠や宇野をこの事件の「真の黒幕」と形容したのは、彼らが分断した側、見捨てた側であったからです。
 そうした黒幕たちの振る舞いについて、ぼくたちは敏感であらねばならないのです。

※以降はnoteで課金の上、お楽しみください。何かこう繰り返すとかえってがめつく感じるなー。たった\100なのに……。