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※この記事は、およそ18分で読めます※

 まず、ご説明しましょう。
 本タイトル、の記事はrei氏によるもの。元はnoteで書かれたものですが、話題を集め、『ガジェット通信』にも転載されています。極めて示唆に富むものであり、是非読んでいただきたいところですが、本稿ではその上で、巷に溢れる「反インセル論」の真実を探っていきたいと思います。

●インセルを巡る左派の嘘 その1.「インセルはネトウヨである」

 さて、そんなこんなで今回のテーマは「インセル」。
 この、アメリカの「非モテ」であるインセルについては、去年も八田真行師匠によるヘイト記事*1への突っ込み、という形で話題にしました。八田師匠は「インセルはトランプ現象と関係があるのだ、あるのだ」と、自分の憎悪を無反省に吐露していましたが、そんなことを言われても、そもそもトランプが出て来たのは、左派が弱者をいじめ続けたからなのではないでしょうか。
 弱者をいじめるためのみに存在している左派としては、トランプを叩かないわけにはいかない。しかし強者を堂々と叩いては左派の名折れだ。だから力のない者たちをトランプ支持者だとの理由から、嬲り殺しにする。師匠の記事からは、そんな左派特有の異常な加虐性が溢れておりました。
 トランプが当選している以上、彼は(確か、女性に限ってもヒラリーより)それなりに支持されているわけなのであって、「インセルはネトウヨ」というのはまあ、「そういうヤツもいる」という意味ではウソではなくとも、政治的目的を持った、恣意的なミスリードと考える他はないでしょう。
 しかしそれをどうしても受け容れることができない左派は、「俺たちの敵は卑しく惨めな者どもなのだ」とヘイトスピーチをひたすら繰り返すのみ。インセルはそんな彼らの前をたまたま偶然に通りかかり、ただ弱そうだというだけの理由で、彼らに意味もなくナイフで滅多突きにされた存在である、というのが実情のようでした。
 これはまた、町山智浩師匠が「トランプ支持者はアニオタだ」などと泣き叫んでいたことと「完全に一致」していますね。
 先頃も師匠の手による「モテない――ただそれだけで大量殺人を犯す“童貞”は、なぜ誕生したのか?」といったネット記事が発表されていました。これは師匠の近著の宣伝記事。エラいエラい作家先生におかれましては著作を出す度、ネットに諸手を挙げて宣伝していただけて、大変羨ましゅうございます。

 モテない、ただそれだけの理由で、無差別大量殺人を犯すテロリストが日常に潜んでいる!
 行方不明になっていた若い女性が惨殺死体で発見されたというニュースに「また売女が死んだ」「ざまあみろ」と喜びのコメントが並ぶ。「レイプの利点は何だと思う?」というアンケートに「デートの必要がない」「金がかからない」などの答え。


 上はインセルのSNSにおける書き込みの内容だそうです。
 いやはや、何ともすさまじいですが、これを持って師匠は以下のように評しています。

キリスト教原理主義者たちがアメリカの政権を握って、すべての女性から働く権利と、選挙権を奪ってしまうのだ。

 え~と……キリスト教原理主義ってレイプと関係あるんですかね?
 インセルコミュニティには確かに、「女の就労を禁止しよう。生きるためには結婚するしかないから、俺たちにも回ってくる」といった言葉も並んでいるそうなのですが、仮にそれが本当だとしても、かねてから言うように*2、ある種の暴論が恣意的に採り挙げられているだけではないかなあとの疑念を拭いきれません。ましてや、町山師匠の言にそうした政治的バイアスがないことは極めてまれです。

*1 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
*2 男性問題から見る現代日本社会

 しかし、それにしてもrei氏の記事は極めて挑発的です。
 何しろタイトルからインセルについて、「実はメディアは全く語らない」としているのですから。事実、インセルでググって見るとただひたすら「女性憎悪」「女性蔑視」の文字が目に飛び込んできて、頭がくらくらします。「非モテ」という本質は、二の次……というわけでもないのでしょうが、町山師匠を見てもわかるように、左派が「喉から手が出るほど欲しかった、女性差別主義者」の姿を見出すことができて、随喜の涙を溢れさせている様が、ここからは見て取れます。
 そして実のところ、先のぼくのエントリの中でも、これは予見されておりました。
 ぼくは八田師匠の記事をアメリカの一齣漫画に準えました。「マリッジカウンセラー(夫婦のいざこざを仲裁するカウンセラー)の事務所を訪れた夫人が、自分側の言い分を存分にしゃべった後、『これから夫の言い分を、私が説明しますわ』と言い出す」というものです。端的には「男の言い分など、誰も聞かない。男の言い分は女の口のみを通して語られる。これは全地球規模の普遍的なコンセンサスだが、師匠の記事は言わばそこに乗っかることで、物言わぬ弱者男性を叩くという目的を完遂したものだ」とでもいった指摘でした。

●インセルを巡る左派の嘘 その2.「インセルはPUAに源流を持つ」

 さて、ではもう少し具体的に、「インセルについて、メディアが語ろうとしない真実」というのはいかなるものか。本エントリではそこを見ていくこととしましょう。
 八田師匠の記事では、「(アメリカの反レイシズムNGOの主張を引用し)インセルの源流はPUA(ピックアップアーティスト)である」としていました。このPUAというのは言わばナンパ師のことです。ぼくも「恋愛工学」みたいなヤツだろう、と書きましたが、rei氏もツイッター上で「恋愛工学」の源流がPUAにあることを明言していました。
 しかし八田師匠の記事を見ても、インセルとPUAにどう関係があるのかが、どうにも見えてこない。
 rei氏の記事においても、むしろインセルはPUAを憎んでいるとの例を挙げ、

その為、日本のインターネットで言われる「PUA(欧米のナンパ文化)からインセルが誕生した」は全くの間違いである。まずインセルの方が先に誕生しているし、PUAもインセルとは無関係に発生したムーブであり、更に両者は基本的に対立関係にある。


 と断言します。
 なるほど、ぼくの予言はまたしても的中したわけです(と、調べもせずに言うのだからお気楽な身分ですな)。
 さて、では左派は何故、そのPUAとインセルを強引に結びつけようとするのでしょう。アレですかね、両方とも「プア」だからですかね。「敵」に「貧乏人!」と心ない言葉を投げつけるのは左派の得意技ですし。
 敢えて言えば、「アーティスト」が「技術者」と訳せることが象徴するように、これには「モテのテクニックを分析し、習得する」といったニュアンスがつきまとっています。
 つまりテクニックによって女性心理を操り、ゲームのように女性を落とすことが女性蔑視でけしからぬ、というのが八田師匠の言い分なのですが、しかしそれはモテ男だって同じでしょう。ならば、「男はとにもかくにも全て悪いのだ」というのが結論のはずですし、実際に彼らはそう思っていることでしょうが、先にも書いたように、強い者に牙を剥くなど、左派の名折れ。そこで彼らはひとまず弱者である側にだけ、刃を向けているわけなのです。
 もう一つ。この「技術」という言葉には、「モテ男が本能的に取る行動をリクツで学び、模倣する非モテ」といったイメージが、なくもありません。これを男女逆転させてカリカチュアライズするとするならば、「二目と見られぬブスがメイド服を着て『萌え萌えきゅん』と言っている光景」とでも形容できましょうか。
 つまりメイド服を着ることで、その女性のブス性が、普段着以上に強く浮かび上がってくるのと同様、ピックアップアーティストという言葉には、どこか「非モテが無理してイキっている」というイメージがある。そこでこの両者を「非モテ」として雑に一括りにして採り挙げてしまった、というのが実情ではないかなあ、と思われます。

●インセルを巡る左派の嘘 その3.「インセルは風俗嬢に乱暴する」

 さて、インセルにまつわるウソはまだまだあります。

 以上、長々と語ったが最後に1つ付け加えておくと、インセルは性風俗産業には反対の立場である。
(中略)
よって日本のインターネットで言われがちな「性風俗で乱暴な言動をする男性」は間違いである。そもそもインセルは性風俗産業を利用しない。


 これは極めて重要な指摘でしょう。
 現実のインセルの実像については目もくれず、ただひたすら「インセルはモテないので、風俗に行く。しかし、女性差別主義者なので、風俗嬢をいじめるのだ」という脳内に立ち現れた淫夢を、左派がネット上に流布させている様が、ここからははっきりと見て取れます。
「敵」の悪事を恣意的に捏造するのは、言うまでもなく左派の得意技ですが、ここには彼ら彼女らの「インセルは女を憎悪しつつ、その肉体性を求めているのだ、そうでなければならないのだ」というニーズがはっきりと表れています。
 さて、今までぼくは「左派」という言葉を多用してきました。八田師匠が象徴的なように、どうにもこの種の話題を好んで採り挙げるのは、男性に多いように思われるからです。
 しかし、この主語を「フェミニスト」に置換すれば、以上は全くお馴染みの光景になりますね。
 フェミニストたちがここ十年ほど多用濫用するようになった「ミソジニー」という言葉が、まさにそうです。いつも指摘する通り、「女性差別」ではなく「女性への嫌悪」という感情そのものを裁こうというおぞましい言葉なのですが、ここにはそれ以上に「彼ら弱者男性、非モテは女を憎悪している。しかしそれは女にモテないからこそであり、実のところ女を求めているのだ」との彼女らの淫夢に立ち現れた妄想が含意されている。
 即ち、上に「左派」と表現したフェミニストの傀儡男性たちによって行われる「インセル批判」は、「女を求め、それが叶わず女に狼藉を働く弱者男性を、正義の強者男性がバールで撲殺する」というフェミニストにとっての「負のポルノ」というのがその本質であった、と考えることができるわけです。
 先にPUAを男女逆転させたら、「メイド服を着たブス」になるのではないかと形容しました。となると「PUA批判」とは、「メイド服を着ているブスを『勘違いするなブス』と撲殺している光景」とでも形容できましょう。文章で書くだけでも嫌な気分になる寒々とした光景ですが、実のところそれがフェミニストにとっては「負のポルノ」として「シコい」ものであるわけなのです。

●インセルの真実――男が内面を持つことは、許されていない

 ――さて、ちょっとここでrei氏の「インセルは性風俗産業には反対の立場である。」との指摘に立ち返ってみましょう。その理由は三つあるとされています。

・セックスだけ買えてもロマンチックな関係とは言えず、また金銭でそれを得なければならないこと自体が苦痛である
・また仮にロマンチックな関係が買えたとしてもインセルには低所得者が多い為、それを定期的に買うのは不可能である
・性風俗産業は脱税や公衆衛生の乱れが横行しており、明確な社会悪である


 まあ、三つとは言っていますが、実質的には一つ目がメインと考えるべきでしょう。
 そしてこれを読むと、何か思い出さないでしょうか。
 そう、『電波男』ですね。
 同書は当時の非モテ論壇(日本のゼロ年代のネット上では「インセル」が既に誕生しており、「非モテ論壇」と呼ばれていたのです)を背景として出て来た書。時々書くように、ぼくはこの非モテ論壇そのものについては疎く、『電波男』にその主張の反映がどれだけあるのかはわからないのですが、「現実の世界に失われた愛を求め、二次元世界へエクソダスした選ばれし民、それがオタクである」というのが本書の作者である本田透氏の主張でした。そしてまた彼はkeyのゲームなどに家族志向があることを指摘、「オタク文化は家族愛の復権」であるとも説き、家族を何よりも深く憎む左派によって袋叩きに遭いました。ぼくもまた近年、オタクが萌えキャラを好むのは当然、そのキャラクターの美しさ、可愛らしさ故であるが、より以上に「萌え的世界」の持つフィクション性、分けてもジェンダーが温存されている世界観にこそ憧れを持っているのではないかと指摘しました。言うまでもなく左派がオタクを叩き続けるのは、彼ら彼女らがジェンダーを何よりも深く憎んでいるからでしょう。
 ともあれ、インセルとは、「ロマンチックな関係」をこそ望む者、ということが言えそうです。この「ロマンチック」は恐らく「ロマンチックラブイデオロギー」の略語のようなニュアンスで使われており、要は恋愛こそがそこでは想定されているはず。
 しかし、それならば、何故、こうまでロマンチックな恋愛を尊ぶインセルが「女性差別主義者だ」などと言い募られねばならないのでしょう(……などと本ブログで書くのは動物学の講義で「イルカは魚でしょうか」などと言ってるような茶番ですが、もうちょっとおつきあいください)。
 ぼくはふと、以下を思い出しました。

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 これ、実のところネットで拾ったもので、何の漫画で前後ではどんなことが主張されているのかわからないのですが、この種の揶揄は度々、ネット上でなされているように思います。
 感じとしては(プロの)フェミニストなり左派文化人なりはタテマエ上、こうしたことは明言しにくく、専らツイッターや匿名掲示板などで一般的な(言ってみればツイフェミ的立場の)人々がこうした揶揄をすることが多い気がします。
 しかし一体全体、何をもって、この発言が叩かれなければならないのでしょう。
「インセルは風俗嬢に狼藉を働くから許せぬのだ」と絶叫しておきながら、返す刀でこうしたことを言っているのだとしたら、もう本当にダブルバインドという他はありません。
 かつて「男は裸百貫」といった言葉がありました。男性は持って生まれた身体能力そのものが資本であり、生まれながらにしてそれだけの価値がある、との言葉です。しかし現代においてはそうしたブルーワーカーには残念ながら、あまり価値があるとはされません。
 ひるがえって、女性にはまさに裸千貫、万貫の価値があるかのように扱われています。おそらくそうなったのは八〇年代以降自由恋愛の時代に、女性の身体性(男のように身体能力ではなく、性的価値ですが)に無限の価値があるとのフィクションが「国教」になってからでしょう。もちろん、本当のところ、ほとんどの女性の肉体に、そんな価値などはないのですが、上の漫画とは裏腹に、メディアはとにもかくにも女性に「ありのままで」とのメッセージを繰り返し、「何か、そういうこと」になっているのが現状です(女性向けの漫画でヒロインが売春させられる時、法外な値がつく傾向にある、との指摘を思い出します*3)。
 もちろん、「異性にモテたいならば努力しろ」というのもまた、一方では極めて真っ当な正論ではあります。しかし、それを演繹していくと、結局女性が男性のありのままを受け容れようとはしない、社会的地位なり経済力なりといったパワースペックの塊として見ている、との証明になってしまうわけです。経済力のない男性が結婚できないのは、もう隠しようのない真理なのですから(おそらく、PUAのノウハウに触れても、例えば「女に対して強気で出ること」など、同じことが語られていると想像できます)。
 となると、上の漫画のようなことを言ってみたくなるのも、不当なこととは言いにくい。
 事実、本田氏も近しいことを言っていたと記憶しています。仮に自分がライター、作家として成功したら女性たちは寄ってくるだろう。しかしそれは本当の愛と言えるのか、と。
 ぼくとしては本田氏は少々潔癖症的過ぎるというか、「目立つ」ことでモテるようになれば、それをきっかけに自分の内面も好きになってくれる女性と出会えるチャンスも増えていいではないか、くらいに思うのですが(その意味でモテるために社会的成功を得るのも、身体を鍛えるのも、ぼくは別段悪いとは思いません)、いずれにせよ論理としては、本田氏や上の漫画のキャラクターは正しいことを言っているとしか、言いようがない。
 男女とも現実にまみれて生きていくものではあれ、前提として「ありのままを愛されたい」との願望、欲望があること自体は当たり前であり、否定されるべきではないと思うのです。

*3 少女漫画の中の売買春の値段 

 もう一つ。ぼくはこれを、「処女厨」といった言葉と極めて近しい構造を持っていると考えます。
 例えばですが、アイドル声優が男性とつきあっていると知り、攻撃するファンというのは(別に声優に限らず、かつてのアイドルから)普遍的な存在です。好ましいことではないけれども、アイドルの商品性は処女性にこそあるのだと考えた時、それなりに故のないことではなく、アイドル側もそこをちゃんと管理すべきでしょう。行き過ぎたものは当然、批判されなければならないが、根本から否定することはできないわけです。
 男性が相手に「処女」を求めることにはある種の普遍性があり、それは女性が「童貞」を忌避すること(これは男性に強さを求めることと全くパラレルです)とワンセットです。
 それは男性が女性の肉体性に魅力を感じ、能動的にアクションを起こすという男女のセクシュアリティに紐づけられており、もしそれを根本から否定するのであれば、恋愛そのものもまた、完全に否定されてしまうでしょう。

●フェミニストの真意――男は内面を持たねばならない、苦しむところを眺めるために。

 さて、くどくどと述べてきましたが、先にも述べたように、これは動物学の講義で「イルカは魚でしょうか」などと言ってるようなもの。そろそろぶっちゃけましょう。
 当初、ぼくは「インセル批判」を「弱い者をいじめないと死ぬ左派が、ターゲットとしてインセルを選んだのだ」と述べました。それはそれで、間違った理解ではありません。しかし後半からは主語がフェミニストへとスライドしていきました(換言するならば、インセル批判をする左派男性が前提しているフェミニズムという思想の腑分けをして見せました)。
 そう、フェミニズムの本質は、「女性差別であるから」との詭弁による、恋愛そのものの全否定です。
 rei氏の記事に立ち返ると、印象的な記述に行き当たります。
 MeToo運動の過程で、

決定的だったのが、オーストリアで自閉症男性の「チック(動作の癖)」がセクハラとしてSNSに晒され、多数の加害予告や個人情報をバラまかれた事件である。


 ということがあったというのです。

 この「主観的・客観的にセクハラや性的アプローチでない言動にせよ、ある1人の女性にそう解釈されたらリンチされる」構造を示した事件とMeToo運動でリンチや自殺による多数の男性死者が出た事と合わせて、「女性は先進国において非モテ男性を殺す権利を有している」という思想が生まれた。


 こういう考え方を、インテリは「女災」と呼んでいるのですが。
 いや、本当に不勉強極まりないことに、リンチや自殺による死者まで出ていたとは知りませんでしたけど。
 ともあれ、白饅頭や青眼鏡が崇拝する牟田和恵師匠の著書を読むとわかるように*4、「女性が不快と感じたら、それはセクハラ」です。
 フェミニズムが恋愛(そして家族)を全否定していることは、自明の、客観的事実です。これは、揺らぐような種類のものではありません*5
 が、ぼくはそう指摘する時に、大体同時に申し添えているかと思います。
 彼女らの本を読むと、確かにそう書いてあるけれども、一人の女性としてのフェミニストの本音としては、実のところ「恋愛の完全否定」をしたいわけではない。
 彼女らの真の理想は、女性ジェンダーの旨味だけをいいとこ取りすること。
 彼女らは、ジェンダーフリー(これは恋愛、結婚、家族の全否定そのものです)を望んではいない。ただ、女性ジェンダーにまつわるネガティビティのみを免除してもらいたい、と思っているのみ。
 換言するならば、彼女らの望みは「恋愛を、女性による完全コントロール下に置くことによる、強者男性から得られるメリットの獲得、弱者男性の抹殺の合法化」です。左派男性たちはこうしたフェミニズムによる大量殺人計画に従事する手先でありました。
 先にも述べた、イケメンには愛され、一方弱者男性はそのイケメンに殺させ、自分はそのスナッフムービー(娯楽目的で作られた、殺人を撮影した映像)という「負のポルノ」を楽しむ、というのが実のところ、フェミニストの目的でした
 その方が、「一粒で二度美味しいから」です(穿ったことを言えば、フェミニストという恋愛弱者はイケメン側の愛は得られず、次善の「(疑似)恋愛体験」として、この「負のポルノ」を求めたのだ、といったことも、当然言えましょうが)。
 だから、彼女らの手先である左派たちは絶叫を続けるのです。
 弱者ども、お前たちに愛される資格があるなどとは、勘違いも甚だしい驕りである。
 それは上級国民である女性様(とその騎士である俺)だけが持つ権利なのだ。
 それにいささかなりとも疑問を持つ者は、こう呼ばれるのだ。女性差別主義者、ミソジニスト、と。
 それが、反インセル論者の高らかな宣言であったのです。

*4 実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件
*5 夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)