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 さて、ちょっとした新企画です。
 流れとしては『シン・仮面ライダー』評の続編と言える部分もあるので、そちらを読まれた方は是非。
 それと、お報せを一つ。
 先日、評論家の小浜逸郎さんが亡くなられました。
 フェミニズム、ポリコレを鋭く批判した、ぼくたちの大先輩とも言うべき人物で、兵頭新児も小浜さんの主催する日曜会に出席させていただいておりました。
 来月、その日曜会で小浜さんの遺作となってしまった『ポリコレ過剰社会』が扱われます。
 ご興味のある方は、ご来場ください。
 詳しくは以下を!

 *     *     *


 今までも時々、『ドラえもん』をフェミ的に解説する本などを槍玉に挙げてきました。
 現状でオタク文化評論というのは、そうしたフェミ的価値観を前提したものしか存在し得ません。
 そうした状況はむろん,好ましいものではないし、やがてはぼくたちが親しんだコンテンツも、次々と封印、ないし修正される未来が待っていることは間違いがありません。
 そういうわけでアフターフェミ時代においてはその存続が危ぶまれるオタクコンテンツについて、時々語っていこうかと思います。


 詳しくはまた別の機会に述べますが、まず昭和特撮は「ホモソーシャリティ」をこそ、テーマとしていました。男の子たちはこうした番組を視聴する時期(つまり大体小学生の頃)、ギャングエイジと呼ばれ、同性同士の絆を重視する年代なのですから。
 そんなわけで今の主婦受けを狙い、媚び続ける特撮とは全く裏腹に、当時のヒーローは「男の子を母親の引力圏から連れ出す王子様」だったわけです。
 ……さて、とは言え、『ゴレンジャー』(1975年)にモモレンジャーが登場したことからもわかるように、ある時期からはこの種の番組でも女性戦士が活躍するようになります。『仮面ライダーストロンガー』(1975年)のタックル、『カゲスター』(1976年)のベルスターなどが有名ですが、それより少し前には、「男女合体変身」という新機軸が試みられたことがあります。
 その一つが今回ご紹介する『ウルトラマンA』(1972年)。
 いわゆる怪獣やっつけ隊であるTACの隊員、北斗星司と南夕子がウルトラタッチで合体し、ウルトラマンAになって怪獣(本作では「超獣」)と戦うという物語です。第一話で二人は超獣の襲撃の中、劇的な出会いを果たすのですが、企画書では「恋人を失った北斗が恋人との思い出の山へ登り、そこでやはり恋人を失ったばかりの南と出会う」といった導入が考えられていました。しかも、互いは互いの失った恋人と瓜二つ。山の天候の急変により山小屋で一晩を明かした二人は、ウルトラマンAの啓示を受け、変身能力を得る……となっていたのです。
 しかしこの展開には相当にストレートな性の匂いがしますよね。恋人を失っているという設定にどうした含みがあるのか、ぼくには理解ができないのですが、二人が山小屋で一夜を共にするって……。

 さて、実はこの企画案そのものは有名で、ぼくも子供の頃から知っていたのですが、内包された性的ニュアンスには、最近ようやく気づきました。本作の舞台裏を調べ上げた『ウルトラマンAの葛藤』という著作が去年に出版されているのですが、これを読んでいてのことです。
 企画書にも北斗と南の性格は、北斗を「動」とするならば南は「静」、沈着冷静な南が猪突猛進な熱血漢である北斗のストッパーとなると記述され、これは実際の映像作品においても反映されていたのですが……同書を読むと、本作についていささか印象が変わってきます。企画書には上に続いて「血気にはやる北斗はすぐに南に変身を迫るが、南はなかなかそれに応じようとはしない」とあるのです。
 何というか……これももろに性を意識した記述ですよね。
 企画書には「男の勇気」と「女の平和を願う心」が合体することで性を超越した完全無欠のヒーローが誕生するのだと説明されていますが、これらは要は能動性/受動性と言い換えてもほぼ意味が通るわけです。
 ――こうなると表題の「『ウルトラマンA』はジェンダーフリーではない」という言葉の意味は、もうおわかりになってきたかと思います。
 フェミニズムによる作品評なんてのはもう、見ているだけでがっくりとくるようなお粗末な、女が活躍しているというだけで諸手を挙げて絶賛するだけのものですが*、本作はそんな単純なジェンダー観の遙か先を行っているのです。
 確かに性を超えた存在であるウルトラマンAですが、それにはあくまで男性の美質、女性の美質がまず前提としてあり、それらが合体することで完璧になるというのが本作のテーマなのですから、ジェンダーフリーを称揚する作品などでは、全くないのです。
 この「男女合体変身」というコンセプトを提示した、本作の企画担当者である市川森一はクリスチャン。そもそもウルトラマンAの合体はアダムの肋骨からイブが生まれたという聖書の記述を元にしたものなのです。
 さらに言うなら女性の受動性という美質を「平和を願う心」として繰り返し強調する辺り、市川のジェンダー観はフェミニストたちの何十、何百、何千年も先を行く先進的なものであったことでしょう。

*余談ですが、国語の授業の副読本にも引用された斎藤美奈子『紅一点論』は、初代『ウルトラマン』のフジ・アキコ隊員を妙に称揚し、『ウルトラマンティガ』のイルマ隊長という女隊長にも言及があるのですが、どういうわけか『ウルトラマンA』はノーチェック。どうも、ご存じなかったようです。

 ここは少しわかりにくいところかも知れませんので、ちょっとだけ細かく見ていきましょう。
 実のところ、この「男女合体変身」はこの時期、妙にあちこちで見られた(逆に言うと近年は全く顧みられなくなった)パターンです。
『トリプルファイター』(1972年)でも『魔人ハンターミツルギ』(1973年)でも三兄弟が合体変身するのですが、その三人目が妹。『アイゼンボーグ』(1977年)ではやはり兄妹二人が合体変身します。
 そう、『A』を除くとあくまで「合体」は兄妹によるものとされ、ここに性的ニュアンスを排除しようとした作り手の意図が透けて見えるのですが、ぼくが指摘したいのはそんなことではなく、この種の番組の持つ男女観がどのようなものであったか、です。
『トリプルファイター』においてはグリーンファイター、レッドファイターがそれぞれ長男、次男であり、「知性」と「力」を司っていたのに対し、妹のオレンジファイターは「心」を司っていました。心を持っていたのは女だけなのですね。
 ぼくは以前、『君の名は』を『シン・トリプルファイター』であると評しました。恋愛映画ながら(そして形としては両者の視点を交互に入れ替える作りとなっているにもかかわらず)本作は徹底して女の子の視点で描かれ、男の子はひたすら女の子に奉仕する存在でした。
 妹が「心」を司り、妹だけがその心情を露わにする(いえ、兄が私的感情を見せる話もないわけではないのですが)本作は、『君の名は』のご先祖様だった、否、「それが、そもそもの世間一般のジェンダー観」だったわけです。
『ミツルギ』においては長男が「智」の、次男が「仁」の、妹が「愛」の剣を持ち、これら剣でミツルギに合体変身します。この「仁」も「愛」も心理的徳性を示すものと言えましょうが、「仁」には公の匂いがするのに対し、「愛」は私的なものを感じさせます。
『アイゼンボーグ』は兄妹の名前そのものがそのまま「善」と「愛」。これもまあ、「仁」と「愛」といっしょと言っていいでしょう。
 翻って「勇気」と「平和を願う心」を対置させた(繰り返すように「能動性/受動性」と換言し得る)Aは、いずれも心理の性質であると同時に、ただそれらはそれ単一では不足であり、相互補完の関係にあるのだとの考えがまず、前提にある。
「男もまた情緒の生き物である」と鋭く、そこで市川は断言してしまっているのです。
 そこが本作の先進的な面でもあり、しかしやはり、あまりにラディカルで受け入れられにくい面でもありました。

 そもそも――という接続詞は、この場合ふさわしくないかも知れませんが――この男女合体変身の設定は、途中で放棄されます。
 番組の丁度中盤で、南は(実は月から来た宇宙人であったという設定がいきなり登場し)地球を去り、以降は北斗が単独でウルトラマンAになるのです。
 先に北斗と南の関係は性的だと述べました。事実、市川の構想では最終回、二人はウルトラマンAであることを捨て、ただの男と女として結婚するというものが考えられていたといいます。
 しかし市川自身が比較的初期の段階で本作を降板しており、上の南退場のストーリーは別な脚本家によって書かれ、北斗は南を「君は月の妹だ」と述べます。「月の妹」って何? と思われるかも知れませんが、要するに地球は月の兄、月は地球の妹だということらしく、つまり本話によって意図してかせずしてか、市川の配した性の匂いは周到なまでに消されてしまっているのですね。
 この南夕子退場については今に至るまで様々な説が語られており、その根本的な理由は判然とはしません。
 内部資料では子供の遊びに取り入れられにくかったと語られ,これが長らく公式見解となっていました。ウルトラマンAごっこで南隊員役を(男の子はもちろんやりたがらないだろうし)女の子が男の子に交じってやりたがるかとなると微妙でしょう。
 しかし近年は一時期、南役の女優さんが自分のわがままで役を降りたと言っていたりで、真偽はわかりません。上に挙げた『Aの葛藤』ではプロデューサーの言などから、ドラマを作りにくかった(主役が二人いて、変身する時にいっしょにいねばならないのではストーリーを拡げにくい)といった理由が推測されています。
 ただ、普通に考えれば、やはり半分女のヒーローという存在は男の子に受け入れられにくかったのではないかと思います。
 Aは(中性的と評する人もいますが)声が納谷悟朗であったり、デザイン的にも(あの耳の処理が揉み上げに見えるんですよね……)やはり極めて男性的ですし、男として描かれていたように思います。
 本作は「男女合体変身」以外にも「ウルトラ兄弟」の登場が新機軸として掲げられていました。Aはその末弟で、ウルトラ兄弟も男ばかりの五人兄弟であると捉えられられていたことでしょう。
 これは先にも述べたギャングエイジの男の子にとっては魅力的な設定であり、そこに女要素はノイズだったのではないでしょうか。
 南降板と共に、本作には極めて皮肉な要素がいくつか入り込みます。
 まずは降板の直前に、ウルトラ五兄弟が大ピンチを迎え、それを救うべくウルトラの父が初登場します。この父は大変人気のあったキャラだそうで、やはり先の本によると父の存在のおかげで本作の視聴率も盛り返し、次回作につながったのだと言います。
 そして南降板の次の話には、新キャラ梅津ダンが登場します。これは『帰ってきたウルトラマン』における次郎と同様の、主人公を兄貴のように慕う少年。
 そのダン登場回を描いたのが、これは次にでも詳しく述べたいところですが、「ホモソーシャルの作家」と評するべき長坂秀佳。実は『帰ってきた』においても番組後半の主人公と少年キャラの絆の再確認話が長坂によって書かれており、おそらくですがプロデューサーも彼の資質を知って、わざわざ招聘したのではないでしょうか。
 南夕子は「父」と「弟」の登場によって「女」から「妹」へと降格させられ、番組から追放された。この南、美人の女優さんが演じており、大人の特撮ファンから見れば惜しい話なのですが、男の子からすれば好ましい存在ではなかったのでしょう。
 こうして、本作は「男女共同参画」に待ったをかけた作品となったのです。

 ――え~と、キレイに終わりそうなところナンですが、最後にちょっと、ちゃぶ台をひっくり返さねばなりません。
 本作の次回作はご存じ『ウルトラマンタロウ』。
 前作の父の好評を受け継いで……だか何だか知りませんが、ここではウルトラの母が初登場します。作中で直接に登場するのは数回にすぎないのですが、ともあれ一話でタロウを誕生させるなど、助っ人に過ぎない父よりも遙かに重要度の高いキャラとして描かれ、三話ではピンチの息子を助けに現れ、共に怪獣を倒します。
 つまり、元からサラブレッドのお坊ちゃんという設定のタロウは、常にママに守られているひ弱な子供という印象を、どうしても与えてしまう。
 変身前の東光太郎は、丁度少し前に小山晃弘氏がdisった大谷翔平を連想させるキャラです。つまり、お母さん受けのいい、よい子。
 当人はさわやかイケメンで、郷秀樹に次ぐ見栄えのいい主人公であり、設定的にもボクサーで風来坊など、男性度は高いはずなのですが、それでも甘えん坊の末弟のイメージが、どこかつきまとう。
『タロウ』では「母子で見るウルトラシリーズ」といったコンセプトが導入されていたのではと見るファンもおり、ファミリー志向でタロウもあまり怪獣を殺さない。
『帰ってきた』、『A』は反体制の時代の若者として、主人公が上層部に楯突く、独断専行するなどといった描写も多く、そこが「青年」の匂いを感じさせたのですが、『タロウ』にはそれがない。
 有り体に言えば、「平成ライダー」のご先祖様になってしまった。
 ぼくには、そのように思われます。