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 相も変わらず、『現代思想』の特集の再録を続けます。元は2019年3月29日に発表したもの。


 しかし文字量が多いため、先週は本来の(その2)の前半だけ再録し、後半は来週に回しことにしました。そのため、先には(その1)として再録しましたが今回から、何か適当に(○○編)と副題をつけることにしました。
 前回は「ガイジン編」でしたが、今回は「アライ編」。
 みなさんご存じでしょうが、アライとはLGBTの理解者、支援者の意味。そもそもが「男性学」者自身がフェミ様という「当事者様」の周囲をうろちょろしてその利権に賜ろうという動機に根ざした存在。となると当然、LGBTアライとなる傾向も、極めて大なのです。
 それと、『WiLL online』様でジャニー問題、デヴィ夫人の炎上騒動について書かせていただいております。目下、第二位! どうぞご愛顧のほどを!!

 デヴィ夫人の爆弾発言から権威主義が透けて見える

 それでは、そゆことで。


  *     *     *


 ……というわけで、さて、続きです。
 初めての方は前回記事から読まれることを推奨します。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
 また、男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。

○藤高和輝 とり乱しを引き受けること

 この人は日本人で多分、ヘテロセクシャル男性。まさにアライというわけですね。

それ(引用者註・男性学やメンズリブ)はフェミニズム運動に対して、「男もしんどいんだ」と不平不満を吐き散らし、同情を乞い求める実践ではない。それはむしろフェミニズムとともにあるような運動であるだろうし、そうであるべきである。それは男性側からのフェミニスト的応答であり、したがってフェミニズムと断絶した試みではなく、その連帯を模索する試みであるはずだろう。
(127-128p)

 あっ、はい。

私はいまでも、フェミニズムとはじめて出会ったときの喜びを鮮明に覚えている。それは私が普段抱えていたジェンダーという謎にはじめて応えてくれた知であり、そして「あなたは男らしくある必要はないのだ」というメッセージを与えてくれた。ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの」という主張に、私はどれだけ勇気づけられただろう。私の〈違和〉はフェミニズムとの出会いをもたらしてくれたのであり、フェミニズムは私をエンパワメントしてくれた。
(134p)

 あっ、はい。
 ちな、「エンパワメント」というのは偏ったイデオロギーの主以外にはあまり耳慣れない言葉だと思うので付言しておきますが、「力づける」といった意味です。
『仮面ライダー龍騎』には仮面ライダー王蛇というキャラクターが登場します。悪のライダーで、無抵抗の弱者であろうと陰惨に殺すことを楽しむシリアルマーダーなのですが、ある時獲物を呼び寄せる囮として少女を利用したところ、その少女が王蛇を自分を救ったと思い込んで慕い、ついて回るというエピソードがありました。
 想像するに、彼らもまた、同じなのではないでしょうか。
 全世界への、専ら憎悪のみに満ちた思想であるフェミニズムを、信奉者(の、男性)は一体全体どういうわけか「この世界がすべての人にとって優しい世界になることを目指すための運動」などと理解しています*1
 大体においてインテリというのはひ弱なもので、小中学生の男子のヒエラルキーの中ではいじめられていた。彼の中にはその時の復讐を果たしたいという怨念が渦巻いている。ここで「ジェンダーが何たらかんたらなので男はワルモノ」と言ってしまえば自分をいじめた男たちに復讐ができる。
 それが彼らの中にある共通のモチーフなのではないでしょうか。いや、彼らのターゲットはどういうわけか、彼らをいじめたわけでもない、彼らよりもさらに弱い男性に限られるのですが。
 そして話は何か「アイデンティティの超克など考えてはならず、男性性を引き受け、女性様に謝罪と賠償を未来永劫大江健三郎くらいに繰り返そう」と続いています。いや、ワタシの脚色がかなり施された要約ですが、大体そんな感じです(128-129p辺り)。
 重要なのは上の「アイデンティティの超克など考えてはならない」という部分で、要するに藤高師匠は「シスヘテロ男性*2としての自分というスタンスから逃げるな」と言っているのです。
 ここだけならば、これは正しいと言わずにはおれない。ぼく自身が常に繰り返している、ぼく自身のスタンスでもあります。「ジェンダーフリー」などという呪文を唱えて、敵の目を誤魔化すのではなく、自分の立ち位置から逃げるなと。
 そして藤高師匠はこれ以降、森岡正博師匠の主張を引用し(本特集は「森岡萌え特集」と呼んでいいくらいに、とにもかくにも森岡フェチたちが一堂に会しています)、第二次性徴期の変化への違和という、「ちょっとセンシティブな男性ならば共通の体験」を吐露します。そこまでは結構な話です。
 しかし、上にもあるように、師匠は男を生まれながらの罪人だと考えている。どう理論が展開するのかと思えば、師匠はこれ以降「ボクちん、ジェンダーレスなカッコちてるのでトランス様に共感ちまちゅ(129p)」みたいなことを言い出すのです。あ~あ。
 これはちょっと余談になりますが、師匠はDSMではまだ性別違和が精神疾患とされているが、WHOでは今年になってそれが外されたことを説明(132p)、脚注では「健常者だが保険がきいていい」みたいなことが書いてあるんですね。こりゃ杉田水脈氏も騒ぐわとしか。
 さらに師匠は何たら言う学者の「違和連続体」という言葉を持ち出して、例えば森岡師匠の記述を鑑みるに「シスジェンダー」すらこの「違和連続体」の主であると考えることもできる、などと言い出します。正直「違和連続体」という言葉の意味は今一よく理解できんのですが、要するに師匠は「シスヘテロ男性」だって自分の性に違和を感じるぞ、性に悩んでいるぞ、と言っているのです。
 あ、まんざらでもないかな、と思っていると、「こうすることでトランスジェンダー」を脱病理化することができる、などと続くのだからたまりません。つまり師匠は、「ノーマル」とされる「シスヘテロ男性」の性の悩みを「アブノーマル」とされるトランス様を救うためのダシにいたしましょう、とおっしゃっているのです。「男性というマジョリティに生まれた罪をそそぐため、マイノリティ様に平身低頭せよ。そのためには自らの中にある違和連続体を鑑みることだ」と言っているだけなのです。
 そうじゃないだろ、としか言いようがありません。
 ぼくたちが男の娘に萌えるのは、「男の娘が萌えるから」であって、「無垢で清浄で高潔なるトランスジェンダーというマイノリティ様に共感するため」ではないのです。
 藤高師匠のしているのは「俺もマイノリティというトップエリートの仲間に入れろ」との要請であると共に、「しかし俺以外の愚民どもは仲間に入れてやらん」との偏狭な選民意識の発露でもあります。これはサブカルのオタク批判、また自分をオタクだと思い込んでいる一般リベのしがちな「オタクは男の娘とかを好むのでジェンダーセンシティブだ」発言と、「完全に一致」しており、これらは全てみな吐き気を催すような腐臭に満ちています。
 藤高師匠は森岡師匠を「男性性」に留まった者として描写し、「私は森岡のように男性性を肯定できなかった」と繰り返します(133-134p)。つまりは、森岡師匠を踏み台にしておいて、「でも俺の方が」と抜け駆けしようとしているのですね。
 しかし以前も描写したように*3、森岡師匠もまた「ボクこそは目下話題の草食系男子です、女子のみなさん、つきあってー!!」と哀願している人。何というか、両者とも、とにかくママに許してもらおうと顔を鼻水でパックして、自分の脇にいる者がいかに「シスジェンダー」に留まっているものかを指摘して、蹴落とそうとしている者たちであるとしか、言いようがありません。まさに「男性学」者特有の競争意識、すさまじいまでのマチズモでもって、彼らは血で血を洗うライダーバトルを今日も続けているのです。
 まさにこの世の地獄ですが、そこで「捕食すべき対象」として否応なくバトルに参加させられているのがオタクなのだからもう、はた迷惑としか言いようがありません。

*1 トンデモ本の世界F
まあ、しかし、考えてみればオウム真理教も彼ら主観ではそうした運動だったのでしょうし、まんざら間違っていないとは言えます。
*2 ちなみに「シスヘテロ男性」とは(正確には「シスジェンダー」といったかと思いますが)端的には「ジェンダー的にも男性であり、異性愛者である、いわゆるフツーの男」という意味あい。マイノリティ商売がマジョリティを絞り込んで絞り込んで、圧迫せんとしていることを象徴するフレーズです。
*3 最後の恋は草食系男子が持ってくる

○黒木萬代 少女になること

 そして、本稿も論調を上と全く同じにしています。
 本稿で語られるのは(疲れたので簡単に済ませますが)、「Vtuberなどに象徴されるようにオッサンの間で少女化願望が増えてるよ~ん」というトピックス。白饅頭も何か大騒ぎしてましたが、ぼくたちにとっては四十年前からなじんでいるハナシですよね。
 黒木師匠は萌えキャラとして振る舞うVtuberを評し、

かくして世界は私を祝福し、私も自分自身を祝福し、世界は充足した私自身によってどこまでも満たされていくことになるだろう
(221p)

 という森岡師匠の著作を引用します。まさにため息の出るような、ある意味ではぼくたちの中にあるコンセンサスの言語化、ちょっと『電波男』的な匂いすらする名文です。
 しかし師匠はさらに森岡師匠の「だからといって女性差別ダーーーーーー!!!」というファビョりを引用し、「女性の被差別者としてのネガティビティを忘れるな」と腐すのを忘れません。
 一体に、フェミニズムはセクシャルマイノリティに色目を使うなど、「男性性(という悪しきもの)を捨てた男」を英雄視します。しかし、本音では男に女性性を享受されるのも、困る。女性性は損であり、デメリットしかないという自分たちのロジックの破綻がバレてしまうからです。ぼくがよく言及する渡辺恒夫はトランスを研究し、「女になりたがっている男が増えている、男は大変だからだ」と指摘、フェミニストにタコ殴りにされ、「男性学」を伊藤師匠に横取りされました。
 師匠のVtuberに対する歯切れも悪さも、それと「完全に一致」していると言わねばなりません。

 ――前回は「ガイジン」関連の論文を二本ご紹介しましたが、今回は「トランス」にすり寄ってみせた論文が二本という構成でした。前者は海外の状況が日本と同じであることの証明、後者は「男性学」とは「男性惨殺学」であることの証明となっているかと思います。前回挙げた論者たちは迷える男性たちに声をかける勧誘係、大学で「世のためになる活動をしたくありませんか」と学生を勧誘する係といえましょう。
 今回の記事で、のこのこ彼ら彼女らについて行った者がどうなるかが明らかになりました。そう、武器を取らされ、この世を構成する者を弱い者から順に殺害していく手伝いをやらされるのです。
 前回の論者を「戦闘員」、今回の論者を「怪人」とするならば、次回は「大幹部」クラスの人々の文章をご紹介したいと思っておりますので、どうぞよろしく。