わずかの間に日本は深刻な指摘を2つ受けた。
一つは「国境なき記者団」は20日、2016年の「報道の自由度ランキング」を発表、日本は、対象の180カ国・地域のうち、前年より順位が11下がって72位となった。日本は10年には11位だったが、年々順位を下げ、14年59位、15年は61位からの急激な後退である。
そして今一つは、そして、国連人権理事会の特別報告者カリフォルニア大学教授のデービッド・ケイ氏が19日、記者会見を行ない、「日本の報道機関の独立性が深刻な脅威にさらされていることを憂慮する」として、放送法や特定秘密保護法の改正を求める声明を発表した。
私はこうした発表は十分ありうると思っていた。
驚いたのは日本社会の無関心さである。
「報道の自由度で世界の72番目」、そんな馬鹿なことはないという怒りもない。
「報道の自由度で世界の72番目」、そんなひどい状態になっ
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younghopeさんが書いているように、日本人は「権力者は悪いことをしない」と信じる傾向が強い。しかし少なくとも安倍政権に限ってはこれは通用しないことを理解すべきである。
その明確な例が、オリンピック誘致の際の「原発汚染水はアンダーコントロール」という虚偽の発言だ。その後も、戦争法を「平和安全」と言い、「理解が得られるように丁寧に説明する」と言いながら一切の説明を拒んでいる。
報道の自由度が72位になった事実を、大新聞を定期購読している読者の何%が知っているだろう。
各社とも極めて小さな扱いで、大方の人は気がついていないだろう。
ジャーナリズムを忘れた新聞社やテレビ局は、そんな記事を大きく扱ったら、どんな仕打ちを受けるか恐れているのだ。
このまま安倍政権を続けたら、来年には中国より下位になり、北朝鮮と最下位争いをしているに違いない。
東京大学新聞社が3/29、3/30に新入生対象にアンケート調査を実施した(4/20東大新聞オンライン)。
①7月実施の参議院選挙に「必ず行く」「行く予定」を合わせて73%
②安全保障法制について「評価する」「どちらかというと評価する」が41%
③支持する政党は自民が30%、民進4%、共産2%
この結果をどう読むか。「無関心」を装い不作為で政権に加担する一般大衆と、金持ち師弟の現状満足・維持願望。
このタッグマッチが日本の闇を掘りつづける。
昔中村敦夫さんの「木枯らし紋次郎」がテレビでヒットした。お決まりのセリフは「あっしには、関わりございません。」だった。あの当時はこの言葉のクールさに好感をおぼえた。世の中が、熱気でいっぱいな時代だったからかもしれない。いまの日本は冷えてしまった。今こそ、人としての真っ当な心を国民全部で共有したいものだ。
「日本はこわい国になった」(それも国民の意識が)の孫崎さんの受け止めに同感.しかし,これは今に始まった事ではなく,今まで自由平等の民主主義的考え方が主流の中で,少し下の方に沈積して隠れていた社会意識の構造と個人的には認識をしている.
どこの国でも多かれ少なかれその様な人は居るのだが,物事の善悪判断においても「損得勘定」をベースにして考え判断・行動をする.そんな損得勘定意識が,特に日本の人の意識構造の中に深く埋まっているように思える.端的に言えば日本の「民主主義」が敗戦によって半ば受動的に得たものなのと,戦前の社会支配構造がほとんど温存され引き継がれた結果,70年を過ぎた今でも人々の「民主主義」意識が半熟状態で過ぎて来たことに起因すると考える.
よくあるのは「そんな事を言ったら損をする」,「黙っていた方が得」,「政治的なことは言わない方が得」などの寄らば大樹の蔭,周囲からの知ったかぶりの囁きアドバイス.そんな経験も過去にある.それが「見ざる,聞かざる,言わざる」の「三猿」事なかれ主義・風潮を育てている.
この「三猿」意識のようなものが進化すると,三猿の対局にある「自由と民主主義」,「見る,聞く,言う」ような人々を異端視し,人種差別に似た抑圧エネルギーに変化する可能性をはらんでいる.これが孫崎さんの言う「日本はこわい国になった」の奥に見える「こわい」ものの正体のように思う.
現在,多くの人々,特に女性の政治意識が変化をして来ている.この中,4月24日に行われる北海道5区と京都3区の「衆院補選」,7月に行われる「参議院議員選挙」で「野党共闘」が多数の議席を得れば,人々の意識の中にあるこの「三猿」意識抑圧も,自由と民主主義の「見る,聞く,言う」に少しなりとも傾斜変化すると思われ,また期待をしたい.間近に迫っている選挙で「野党共闘」が多数を得て,自民・公明のアベ政治を終わらせる事が,この日本を再び幸せな国に再構築する一歩となるだろう.(2016年4月22日)
私も友人に話をしても、左翼だねと片付けられ大丈夫だよとそんな感じです。私は教育の面でも右傾教科書になり心配ばかりですが。やはり私たち世代は平和な世の中で過ごしているためそんな事日本で起きるはずがない、そんな考えばかりだと思います。左翼が騒いでいる、そんな感じのようです。
孫崎先生がおっしゃるように「見ざる、言わざる、聞かざる」は鋭いご指摘であることに間違いはありません。しかし、一般大衆というのはどこの国でも大体においてそういう傾向があり無頓着を装う或いは芯から無頓着な傾向にあることは否定できないように思うのです。
先日の対談で松井久子監督が「政治アレルギー」を話されました。「見ざる、言わざる、聞かざる」、「無頓着」に通ずる言い換えだと思います。私の感じでは日本の頭良さげなプチブル層の大半がこの政治アレルギーに罹っています。メデイアという法人も一般企業も同様の政治アレルギーに罹っているのです。私はこの層を積極的無頓着構造と呼びたい。この構造は確信犯ですから頑固です。一応の理論武装をしています。井上ひさしが描くところの大政の匂いを感じうまく世渡りする構造だと思うのです。問題はその他の国民の大半の人々が「報道の自由」と言われても、問題意識そのものが希薄ということではないでしょうか。そういうデモグラフィー下では「報道機関の独立性への脅威」と言われても、最も活躍が期待され実力を持って居る主たる報道企業が率先して積極的無頓着を決め込んでいるのですから、少数派が動いても何も響かない。ではどうする?
続く
>>7
続き
「そんなことでは困る」と不安に思う自然人、法人があらゆる機会をとらえて主張し続けていくしか無いのではないでしょうか。日本国憲法も敗戦の灰燼の中であっても幣原さんや芦田さんがいたから成立したんです。少数派が主張し続けていけば、日本でもサンダース現象が起こると思うのです。社会主義者は米国では存在し得なかったのです。ところがサンダースは「私は社会主義者だ」と宣言して居るんです。そして多くの支持がサンダースに寄せられているのです。彼が大統領になれなくとも米国社会全体が大きく変わって行くきっかけになるでしょう。
松井久子監督は憲法九条の会は同種類の人間が集まって正義を確かめ合う儀式となっているとやや冷笑的でした。しかし、そういう会が継続してきたから今も尚「九条廃止案」に対して国民の大多数が反対しているという結果を生みだしていると私は考えています。
積極的無頓着、天然無頓着、風見鳥が大勢いる中で主張し続けるのは大変ですが、やるしかないと私は思います。
「オレオレ詐欺」がますますはびこる国、「いじめ」がいっこうになくならない国。テレビではひたすら「うまい、うまい」と物を食う番組が流れる国。「元気」「いやし」「きずな」という空疎な言葉が流れる国。若者が下を向いている国。口の臭いおやじの声が大きな国。
> 国民の大多数は「気付くことがマイナス」と感じ取っていることだ。
やはりそういうことなのか。実際、何かの弾みで職場の若手等に「アベはサイテーだ!」と口走っても乗ってくるケースは稀です。大抵、能面かニヤニヤ顔に変わる。無知なだけなら「それ、どういうことですか?」と訊いてきそうなものですが、それはありません。無関心なら表情変えることはないでしょうから。ある者は「日本人って、上がおかしくても『それはそれ』なんですよ」と。要は、
>「見ざる、言わざる、聞かざる」の国なのだ。
それでいいじゃないか-というのがこの国の大勢。一方、孫崎派はそれを「国民病」と捉える。しかも生活習慣病の類と思います。病であれば処方箋が必要でしょう。戦後70年、そっち方面の研究はとんと進まず、一度も処方された例なしというのも解せません。それもタブーなのでしょうか。どのみち、この病に罹っている以上、日本の民主主義などインチキでしかないと思います。そんな窮屈な社会では若者は下を向き、視線の先のiPhoneに閉じ篭りっ放しというのも無理からぬこと。
NHK放送「日本の話芸」で桂米助が「横綱になるより首相になる方が簡単。誰でもなれる」と言ったら、会場が「し~ん」。失笑さえ起らない。「くす」もない。米助、滑り方に当惑。
ロシアなど圧政に対する笑い話で庶民は憂さを晴らすが、日本にはその手の笑いが通用せず。
ベルクソン『笑い』に笑いは理性的なものの上に落ちてくるとある。
ちなみに、笑いは、副交感神経を優位にさせ、免疫力を高め、ガンを癒す働きのある活動として知られている。