戦前、通信社に同盟通信があり、戦後、これが、共同通信と時事通信に分離した。戦後、時事通信の内信部長の任にあった大屋寿雄が第2次大戦前、自らが経験した日中戦争、欧州戦争、太平洋戦争について、『戦争巡歴』という題で総ページ数、731という大部のものが今出版された。
この本の冒頭石山永一郎共同通信編集委員が「教訓の宝庫」と題し一文を載せているがこれが興味深い。
もし、戦前、同盟通信の記者が軍や政権の指示の下、鉄の規律で上の命令に従って書いていたのなら評価は簡単だが、そうした強い規律もなく、比較的自由に書けそうな雰囲気の中で記者は活動しており、そうだとすると、同盟通信などが書いた報道で国を誤った道に導いてしまったとすると事態はより深刻ではないかとの問題提起をしている。つまり、今と同じような環境で記者が仕事をしていて「国を誤った道に導いてしまった」とすると、そこから考えなければなら
コメント
コメントを書くマスコミにすべての責任を押し付けて、我々一人一人の国民が、自分に責任があることに気が付かない。気が付かないというより自己反省することを逃げ、マスコミをやり玉に挙げているに過ぎないことに気づくように、今回ご指摘された孫崎さんのご投稿に強く共鳴いたします。
国民が国民を見張る、国民が体制に通報する習慣が長い間国民に染みついているというより、体制順応DNAに支配されているとみるべきでしょう。
様々な組織において、仲間を裏切り、上司にすべてを話す裏切り行為によって、左遷、窓際に追いやられるなどの仕打ちを経験した方が、多くいるのではないか。社会における交際関係は、ほとんど背信であり打算であり、純粋な友情などは極めて珍しいことであり、その程度が昔より現在の方が悪化していることは確かでしょう。
何故、このようなことが起きるかといえば、自分を見つめどのように生きるべきかの根本が定まらず、結果が悪ければすべて他人が悪く、自分を必ず安全地帯に置き安眠を貪るからです。利己主義であり、大多数の国民に議論して決める民主主義の土台ができていないのです。巨大な財政赤字は、政府が悪いのでなく、国民が自らの欲望を遂げるために、皆で増やし続けているに過ぎない。みんな自分さえ良ければ他人のことなどお構いなし、国民性なのでしょうか。
戦前の同盟通信社(1936~1945年)が「今とさほどかわらないリベラルな記者や幹部がいた組織であった」にも関わらず「国を誤った道に導いてしまった」報道メディアだったとの認識.2016年現在の日本の大手メディア報道状況とのその相似形に,悲しくまた哀れみすら覚えてしまう.
戦後の民主主義教育を受けて平和の恩恵を享受し,リベラル的に育って来た「有能で多彩」な人間が,報道の世界に入って再び積極的にもしくは消極的にでも,少し考えれば後世の若い世代の命が殺し殺される不幸に巻き込まれる事が明らかな,好戦的な「戦争」思考のアベ政権の思惑を忖度して,情報受け手の国民に思惑を忖度した表皮的な情報しか伝えず国民を情報コントロールし,そのコントロール結果による「国民の選択」を国民自らの自主的選択かのようにして,再び国を誤った道に導くような戦前の轍を再び踏もうとしているしすでに踏んでいる.
過去の知識を基にして科学は進歩をしているが,現在の人間はまるで進歩が止まって,むしろ中世の時代に先祖返りしたかのような印象すら覚えてしまう.人は必ず死んで新しい命が真っ白な状態で生まれてくるのだから,過去の教訓・反省を基にしなければ人間は進歩しない.
特にメディアに携わる知識人はその知識力をフル活用して,人々が平和で幸せに暮らして行ける道筋を見通すところにその知識力が輝く.もし不幸な過去を知りながら戦前の轍を踏み続けるのだとしたら,それは,ただ単なる知識人と言う記憶メモリーが少し多い動物でしかないだろう.
大手メディア組織の上流に位置する幹部の方々には,戦前の轍を再び踏まないよう良識ある組織運営を願い,有能で多彩な記者の能力を存分に発揮させて欲しい.そして,ナチスドイツ・ヒトラーのような恐ろしい強権独裁側の一員ではなく,人々の自由と民主主義を大切にする一員として存在して欲しい.(2016年10月5日)