米国の歌手ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するのか否なのかが話題となっている。
次の報道がある。
「ボブ・ディラン氏は無礼で傲慢」ノーベル委員長が苦言
「今年のノーベル文学賞の受賞が決まった米国のミュージシャン、ボブ・ディランさん(75)が沈黙を貫いていることについて、同賞を選考したノーベル委員長のペール・ベストベリィ氏が21日、「無礼で傲慢だ。でもそれが彼ってものだ」と苦言を呈した。スウェーデン公共放送SVTのインタビューに応じた。ベストベリィ氏は、ディランさんの公式ウェブサイトから「文学賞受賞」の文言が21日までに削除されたことも認識しているとして、「予想していなかったが、彼は気難しいようだから驚きはしなかった」と語った。」
これにちなんで、昨日はサルトルノーベル賞受賞拒否の理由の説明をみた。
その中で、サルトルの「作家の得る政治的、社会的、文学的地位
コメント
コメントを書くサルトルも漱石も拒否の意思を表示し,なおかつその理由を説明しました。
ボブ・ディランは意思表示すらしていません。この差はどこにあるのか,興味ある問題です。
「無礼で傲慢」と言っているが、恐らく本人は「何の事かわからない」と言うのが本音ではないだろうか。彼(ディラン)はシンガーソングライターと言ってもあまたに溢れる程いる優れた歌手の一人である。歌手なら歌で評価してもらいたい、それが文学賞って事はね。恐らく文学賞受賞に対する彼の反応は私と同じ、”えっ?”と言う事だけだろう。信じられないし、どう反応して良いのかわからないのだろう。無礼で傲慢などと非難する必要はないだろう。授賞式に来たらきたで一曲披露してもらえばいいし、来なけりゃBGMで彼の歌でも流せばいいのではないか?
"The answer is my friend, blowing in the wind. The answer is blowing in the wind!!"
実は、漱石は内定していた東大教授の職を辞して朝日新聞社に入社している。この点も、コレージュ・ド・フランスをこばんだサルトルと共通する。
しかし、それ以上に重要な、漱石とサルトルとの共通点は、学問並びに思想上の「自由」を掲げていることだ。かつ、それを当局の権威を恐れずに堂々と開陳しているその勇気と、その論理を言語化するだけの卓越した頭脳だ。
権威への従属は自由から最も遠く、かつ醜いもので、自分なりの生き方をもっている人間にとって本来耐え難いものであるはずだが、権威をやたらにありがたがり、「えらい人」というだけでペコペコし、自分の意見すらまともに言えないことが――そうしたことは往古今来ありふれたことだが――今や少しも醜いことではないかのような風潮になっている。
つまり腐敗しているのだ、時代そのものが。
いつも、「寺ちゃん」の孫崎さんの回を聴いているが、いつ聴いても言うべきことを言い、われわれにも分かるように明確に説明し、公平にものごとを考えている孫崎さんのものの言い方の爽やかさには感服し、かつ、影響されもする。
孫崎さんもノーベル平和賞をもらってよいほど、国民の自由享受の戦いに、「言論」で参加している自由の闘士だが、恐らく、ノーベル賞は辞退されるでしょう。孫崎さんならそれができると思う。
ボブ・デイランから始まった今回のコメントのやり取りで随分多くの啓発を受けました。
私はノーベル賞がすごいという前提で考えていたので見えていない部分が多々自分にあることを知り恥ずかしい限りです。せいぜい山本周五郎に賞辞退の美学を感じておしまいにしていたのですが、夏目漱石がそれほどの剛のものとは知りませんでした。夏目漱石やサルトルのような偉大な人にはそれに相応するしっかりしたダンデイズムがあるのですね。
山本周五郎の美学もすばらしいですね。
それにしても、周五郎さんは、大仏次郎や菊池寛を俗物とみていたとは知りませんでした。
非常にレベルの高い人びとのなかでも厳しい批判があったわけですね。
改めて、昔日の「日本」は、今の「日本」じゃないことが分かりますよ。
今の「日本」はMac食って育った人々のつくった似非日本。
ファンなら既にご存知のことと思いますが、ボブ・ディランさんは2015年度の「グラミー賞を受賞」されました。
2015年2月6日LAのコンヴェンション・センターにて行なわれたトリビュート・ コンサートの中で、ボブ・ディランさんはスピーチを行っています。その時の「スピーチの日本語訳」がネット上で閲覧できますのでここにURLを添付させていただきます。
ボブ・ディランのファンにとっては一読の価値ありです。
http://www.sonymusic.co.jp/artist/BobDylan/info/450306