1967年だったろうか、英国で留学中にBBCの番組を見た。テーマは「安楽死は是か非か」であった。
形式は、裁判を模倣したものである。陪審人がいる。「安楽死は是」とする検察側の論告に対し、「安楽死は許されない」とする弁護人が法廷闘争を行い、最後にこの番組を傍聴にきている一般の人々が判決を出すという番組だった(検察、弁護人の立場は逆だったかもしれない)。この場合の安楽死は「もう病状が回復する可能性のない患者が安楽死を望んだ時に医者は助けていいか」というものである。
「安楽死は行うべきでない」という証言に手足がなく生まれてきた女性が出た。
「手足がなく、自由に動けない。生きている価値があるか」と思う人がいるかもしれない。
彼女は「生まれてきて神に感謝しています。生をうけることがどんなに素晴らしいか」を述べた。そして、子供たちは、「母がいなかったら私達はいない、感謝します」と述べた。
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5体満足で生まれてこのかた70歳余の私には是非は判りません。
生身の身体に突然大きな支障が起こる可能性誰にでもはあります。
しかし、その時の心情は想像することはできません。
障害を乗り越えて生き続けるべきなのか? 安楽死を選ぶか?
選択肢を残しておくのも、人権なのかも・・・人生最後の判断機会は、その時に残しておきたいです。
意識の有無が決め手になるのではないでしょうか。コストが如何にかかろうとも救済することが大事なんじゃないでしょうか。そういう理念を大切に維持する国には戦争と言う概念も意味を喪失する。実に正当な考えではないでしょうか。
う~む。考え込んでしまいました。
私の父は、他界する数か月まえ、脳梗塞・肺炎などを患い、胃ろう栄養補給でした。病院のベッドで動けない状況でした。ただ頭脳ははっきりしていて、私が見舞いにいくと、「俺は何で生きているのかわからん・・・」 ずっとしっかりした生き方をしてきた父でしたが、私はしばらく答えに窮していました。
ようやく「神様が、まだ生きていろ、とおっしゃるから、生きている価値はあるんだ・・・」 こう答えたあと、父の苦しみを、自分はわかってないなぁ・・・とひとり呻きました。
自分にはどうするチカラもなく、ただ見守るだけ。
高度医療によって、生存期間を延ばすことは相当進歩してきたと思います。しかし、その状態で生かされているということは、本当に自然な状態なのか? 安楽死、高度医療による“無理な”延命、・・・医学の進歩に伴って、生物としての人間の自然な逝き方を再度考えないといけないような気がしております。
安楽死は平穏死、自然死、尊厳死ではない。
「安楽死」は、生きている価値がない、生きさせておくのはかわいそうだという生命を軽んじた選択である。この発想の延長線上に優性思想がある。他に生命の維持を委ねたら、障碍者抹殺の思想につながる。障害者他殺事件を容認することにつながる。「平穏死」は、生命維持装置によって命を延長させるか、人間の生命力に委ねるかの問題であり、人為的な注射などによる「安楽死」とは異なるということを、私たちは、理解すべきであり、孫崎さんも、「安楽死」は否定しても、「平穏死」を否定してはおられないのではないでしょうか。