A:事実関係:ラフカディオ・ハーンは著『神国日本』(1888年米国で出版し、日本では平凡社、1976年)からの引用
・(日本の)近代の変転、変化の目まぐるしいばかりのあわただしさー19871年の社会の改革から1891年の第一回国会開設に至るものーを考察いただきたい。19世紀の半ばに至るまで、この民族は、2600年前のヨーロッパの族長社会と同じままでいた。
・ド・クーランジェ(注、19世紀のフランスの中世学者)は個人の自由の欠如ということがギリシア社会の紛乱と結局の壊滅を見るにいたった真因であったと指摘している。
・日本の場合にはこの(族長組織)解体は、電気と蒸気の持つ急速な力の作動する強力な外敵圧力によって起こっている。無政府無秩序の状態の危険性は目睫の間に迫っており、それに人民―驚いたことにもう一千万以上にも増大しているのだーは産業状態下の窮乏から展開されるあらゆる形の
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小泉八雲-昔、国語の教科書に載っていた怪談か何かで名前を知っているだけで、記事のような指摘は聞いた覚えがありません。「戦後史の正体」に書かれていることなど学校で習った覚えがないのと同じです。やはり、「広く大衆に知らせるのは適切でない」と扱われたのでしょうか。
何れにせよ、昔も今も、日本というのは(国全体として)どうして刹那的な生き方を止められないのか。第一、そんな生き方を止める努力をしたことがあるのか。阻止する勢力を「アカめ!」と片付ければ済む話ではないでしょう。
> 自らを最後の犠牲にしてしまう悲運を見るのではなかろうか。
そして今再び原発、沖縄etc.でその繰り返しとは、まったく締まらないかぎりです。
つい先日、50年前の「アルジェの戦い」を見ましたが、凄い映画でした。
その中の台詞-
「戦争も革命も同じだ。テロが有効なのは最初だけ。勝利を決めるのは民衆の行動だ」
「革命を始めるのは難しい。続けるのは更に難しい。勝利するのは尚さら困難だ。だが、本当に大変なのは勝った後だ」
そんな状況からはほど遠い「平和」な日本でしょうが、奴隷や家畜的生活を好むよう仕向け、決して行動など起こさぬよう民衆を手懐けてきた結果とも思えます。
達見であり、同じように、鈴木大拙の宗教書を見ていると、近代文明と機械化の弊害を指摘しており、移ろいやすい世俗にとらわれない自己確立した世界に遊ぶ(言動する)ことの重要性を説いておられるのでしょう。
戦前も戦後も、日本人の勤勉性と自己犠牲の上に成立する集団化により、貿易で莫大な増加を図り、国力を強化してきた。問題は、国力の源泉である貿易収支を、何に活用していくかであるが、赤字財政の軽減、国民の生活向上、福祉の充実でなく、軍事費の増大化が図られることである。今回の予算も、如実にその事例を踏襲している。歴史は繰り返す、わかっていて止められない軍事強化をどのように理解すべきであろうか。米国にも中国にもロシアにも偏らない日本独自の道を選択すべきであるが、日本人同士の議論の集約化が図れない。日米同盟に異議を持たず属国意識が支配し、日本人同士で、議論して、多数に従うという民主主義の理念が根付いていないのです。
ラフカデオ・ハーンの日本人を見る目に優しさがあるので私は好きです。ただ、彼の日本歴史の認識と評価についてはここに書いてありますようにヨーロッパの2600年前の族長社会が一挙に近代化に向かうというのは如何なものかと思います。江戸時代の町人や職人の社会は結構成熟した面があってロンドンの取引所よりずっと以前にコメの先物取引を始めて居ます。ハーバードの経済学部の有名学者もそのことを指摘しています。ただ、彼の目に文明開化を極端に急ぐ日本の姿が奇異に映ったので族長社会と言った極端な断定に至ったと考えれば情状酌量の余地はあるとは思います。
それはそれとして、彼が「経済経験では幾世紀かの先輩の各国の人々を引きいれる余地作りの準備に終わる」と言ったことに彼の並々ならぬ慧眼を感じます。1945年の日本の無条件降伏、そして今、安保法制を完備し、米の要請に従い、米の戦争に参加する決意をし、TPPをさっさと批准した姿はラフカデオ・ハーンの予言する通りではないですか。私たち日本人は深く反省し、この国の方向転換を模索すべきだと私は思います。
まえいうたやろ。。個々の人たいがいのうたりんでどないもならんで。書くだけ志度祝い。
最後に蜂起しましょか?ジャップの春ですわ。